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2月 24 2012

正しい性のあり方②

10:21 AM ブログ

こうした理想の感情移入は、人間は神の子であるとの自覚から起きてくるものですが、心理学者たちは神と霊の存在を否定していますので、それを単なる潜在意識からくる、としか言わないのです。人間が理想を求めるのは、人間の霊(たましい)そのものが神の意識を持つ神の子であるからです。

ですから私たちは、その神の心を現す恋愛をしなければならないのであるし、その神の心を現す正しい恋愛とは、自分の人格を高め、教養知識を高め、理想の人間を目指して、人間性の向上を自覚し、その向上をお互いが認め合うものがそうなのであり、そいうものを一切無視し、すぐ性欲に結びつくようなものは恋愛ではなく、ただの欲望のはけ口にしか過ぎないのです。

性の結合をスポーツのようにいい、ずいぶん軽く見ている人もいますが、性の結合とは、神が天地を創造された創造原理の人間的表現であるのですから、それだけの尊厳と重みがあり、そんなに誰とでも気軽にできるような軽いものではないのです。夫婦の縁を持ち、夫婦となった者同士に許された、夫婦にだけ認められた、お互いの愛情を確かめ合い、また子孫を残すという、神の心を現す神聖な行為であり、めったやたらにやってしまってはならないのです。(そのために人間は神から理性というものが与えられているのです。やりたいからやる、では動物とかわらないのであるし、理性を持って自制するところは自制しないと、万物の霊長としての使命も果たせないのです)

釈尊もキリストも生命の本源である神仏に帰一することも忘れ、肉体的、物質的欲望のみを求める人間を、親の存在を忘れてさまよう放蕩息子にたとえられました。

だから、特に女性は純潔を守るということは大事なことであり(前回もなぜ男が処女に憧れるのかを書きましたが)純潔を守り、結婚した男性にしか体を許さない女性は、それがそのまま神の心の表れとなり、そのような女性に神の心が表れるので、世の多くの男性はそのような女性に憧れるのです。

このように書けば、それは考え方が古いだの何だの言われますが、では、世の男性に、たくさんの男を知っている女性と、純潔を守る女性とどちらの女性がいいのか、と聞けば、百人が百人(マァ例外はあるかもしれませんが)純潔を守る女性がいいと言うでしょうし、では、何で純潔を守る女性の方がいいのかと聞けば、男性により答えはまちまちであっても、やはり純潔を守る女性に神の心を見るからです。

現代の思想が思想ですので、男を知っていようがいまいが関係ない、という言い方をし、何かたくさん男を知っている女の方が、いいような言い方をする人もいますが、口ではそんな言い方をしても、では、本当にそう思っている男が実際多いのかと言えば、ほとんどの男の心の中は、そんな(たくさん男を知っているような)女には嫌悪感を感じ軽蔑しているのです。それはそのような女が神の心とは反対のことをしているから、ほとんどすべての男はそう感じているのです。(精神とは神の精と書きます。一人一人の心にはその神の精が宿っているのですから、神の心を表していない人に嫌悪感を感じるのは当たり前のことです)

ですから昨今のように、何か何時までも処女であってはいけないという風潮は間違いであり、女性の純潔は非常に大事なものであり、女性は純潔を守った方が神の心を現しているのですから、貞節な女性として男からの信頼も得、また好意も寄せられるのです。(それだけ男以上に女性の体は大事なのです)仮に男を知っていたとしても、それを世間で言うことは、自分で、私は淫らなバカ女です、と言っていることと同じであり、そんな風に世間で思われるのであれば、それはその人は自業自得で仕方がない話ですが、そのような人を嫁にもらう男性はやはり辛いでしょう。

自分が結婚する気があるならば、将来自分の夫となる男性のことも考え(なぜ、結婚する相手のことを考えて自分の体を大事にしなければならないか、それは次回詳しく書きます)少々好きになったくらいで、簡単に自分の体を男性に開くのは間違いであるし(また性関係を持ったばかりに、起きないでいい悲劇も起きることがあります)そんなことを平気で世間で言うことも間違いであるし、また、結婚すると決めた人がいたとしても、どうせ、結婚するからということで体を開くのも間違いであるし(先ほども書きましたが性行為は夫婦にだけ許された神聖な行為だからです。また女性が簡単に体を開いてしまうと、やはり男は他の男にも簡単に体を許すのではないかと考えます。結婚前の女性は身持ちが硬い方がいいのです)最近はできちゃった婚が流行のようですが、こんな性行為を軽く見て、順序も何もないやり方が正しいはずありません。間違った順序で間違ったことを行えば、仮に最後は結婚したとしても、その間違った分の償いはしなければなりません。

正しい順序を経て正しく行うことが正しいことなのです。(そうして初めて神の祝福が得られるのです)それを無視して行う性行為は、やはり神を冒涜していると言わざるを得ません。

しかし、昨今の風潮が風潮です。間違いを犯してしまったものを、いまさら戻すということもできませんので、間違いを犯したと自覚したならば、それは本人自身が間違いを犯してしまったことを神に詫び、そうして二度と同じ間違いは犯さないと神に誓うのであれば、その罪は許されます。(昔はそうであったが、今はそうではないのでそれでいい、と軽く考えている人もいますが、間違いを反省しないと罪は罪のまま残ってしまいます。間違いを間違いと認めて、そうして反省した時、初めてその罪は許されるのです)

一番悪いのは、そのような懺悔も反省もなく神の心を理解しようともせず(神の借り物である)肉体を自分のものと思い込み、いつまでも間違いを続けることです。性の間違いを、何時までも間違いと認めず、同じようなことをしているのであれば、それでは動物と同じで、そこには進歩も向上もありません。そのようなことを続けているのであれば、最後には不幸になることを知らなければならないでしょう。

人の体を見てください、目は二つ、ついていて、耳も二つ、ついています。しかし、口は一つしかありません。なぜでしょうか。人の体は、二つあるものはよく働くため(よく見て、よく聞くという意味です…手や足も二本づつついています、これもよく動かせという意味です)一つしかないものは余計なことをしないため(余計なことを喋るなという意味です)そのようにつくられているのです。

男も女も性器は一つしかありません。これは余計なことをするなということです。男の性器を“マラ”ともいいます。このマラとは、釈尊が在世当時のインドで悪魔のことをマラーといいました。それが語源で、やはり男もやたらめったら性器を使えば、それは悪魔のそれとなり、夫婦となった妻にだけ使えば、それは“珍宝”となって新しい生命を生み出すのです。

男の性器は外側に女の性器は内側につくられています。そのようにつくられているのであれば、女性はその内側のものをやたら外に見せてはならないのであるし、内側のものを内に秘め、それを夫にしか見せない貞節な妻に男は神を見るのです。(だから女を、おかみ〔神〕さん、奥さん、と呼ぶのです。それは女性の心の奥に、神の心が内在されているから、そう呼ぶのです)

大自然同様、人の体も、私たち人間の正しい生き方を教えています。

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