2月 22 2012
正しい性のあり方①
先週一週間ブログを書きませんでしたが、しかし、その間だけでも地震やら大雪やら観測史上最低気温やらノロウイルスの集団感染やら出て、相変わらず異常現象は収まっていません。
ブログのネタには困りませんが、やはり世の人々の考えをよほど変えないと、この異常現象は収まりませんね。あまりはっきり書くのもどうかと思っていましたが、性の問題を無視して私たち人間は成り立たないのでありますし、その性の問題を正しく説かれたのは(神の心からして、という意味です)園頭先生お一人でもあるのだし、その弟子の私がはっきり正しい性のあり方を書かないで、では誰がそれを書くのかとも思い書くことにします。
現在の世の中の性の乱れを見るにつけ、それをそのままほっておいてはいけないと思いますし、現在やっているような性教育をされては(避妊のためコンドームを使いましょうとか、エイズ予防のためコンドームを使いましょう、とかいう類のものです)性の乱れを助長はしても、正しくはならないとも思い、私も、もう五十を過ぎたのであるから、ソロソロそのような話をしてもよいのではあるまいかとも思って、ここに正しい性とはどうあるべきなのか、その基準を書いておきたいと思います。(先週の週刊ポストにも世界の性教育の特集が載っていましたが、どこの国も似たり寄ったりで神の心を教えていません。あれではダメです)
どうしても性の問題を書くのであれば女性の心が中心となります。女性の方々には、少々きつい書き方になるかもしれませんが、それはご容赦ください。
まず始めに、よく「自分の体をどう使おうが、自分の勝手だ」と言われる人がいます。
その考えがすでに間違っていますので、その考えのどこに間違いがあるのか、それから書きたいと思います。
自分の体と言われますが、ではなんでそんな自分の体が、自分の自由にならないのでしょうか?
自由になると思っていられる方が多いと思いますが、腕や足は一定の方向には動きますが、逆方向には動きません。(腕や足を反対方向に曲げようとしたら骨が折れてしまいます)髪を伸ばしたり縮めたりすることもできませんし、心臓を止めたり動かしたりすることもできません。それに年をとりたくないと思っても年はとっていくのであるし、死にたくないと思っても心臓が止まれば死にます。
よく考えれば、自分の体など何一つ自由にならないのです。(一定方向には自由に動かせますが、一定方向にしか動かせないというのであれば、それは逆に不自由なのではないでしょうか)
そんな自分の自由にならない体が、本当に自分の体といえるのでしょうか?よくよく考えてみれば、すべて人はコントロールされていると考えられないでしょうか。(たとえば寿命などでもそうですが人によって皆違います。自殺により早く死ぬことはできても、二百年も三百年も生きようとしても、あるいは永遠の命を得たいと思っても無理です。ということは、人は自分の寿命さえ自分では決められないのです)
自分の寿命さえ自分で決められない、そんな他からコントロールされているような体が、自分のもののはずはないのであって、ではこの体は誰のものなのでしょうか?
すべてそれは神のものなのです。つまり私たちはこの肉体さえも神からの借り物であって、神から借り物であるならば、自分勝手に使ってはならないということです。やはり、この肉体を使って、神の心を世に現さなければならないということなのです。(この世のすべてのものは神からの借り物であり、神の心をこの世に現すための道具なのです。だから、神の心を知らないと、その道具の扱い方を間違ってしまうので、不幸なことが起きるということになります)
その神からの借り物である自分の肉体を「自分の体をどう使おうが、自分の勝手だ」とは、どの口が言うのでしょうか。それはあまりに事実を知らない、愚かな発言としか言いようがないのではないでしょうか。
だから、自分の肉体を自分の欲望のままに使ってはならないのです。男女の愛とは決して性欲だけの愛ではないからです。(というか性欲だけでは愛とは言いません)
性欲とは、性的快感を得んがために、お互い抱擁し、体を接触して、肉体的官能的興奮を得んとするものであり、だから性欲だけの性行為は、相手が異性でありさえすれば、相手がどんな相手であろうと相手の人格など無視して行えるのです。
これに反し、本当に純粋な恋愛とは、相手との性行為を考えない、もし肉体的に接触による性行為を考えると、そのことだけで自分を卑しい存在だと考えるほど純化された「美的感情」であり、自分の魂と相手との魂とが完全に融合し、一体となった神秘的感覚であるのです。
本当の男女の愛とは、そのような純粋で神秘的感覚を持ったものなのです。
そのような心を持つのであれば、相手の顔が、目が、鼻が、口元が、体全体が「美」そのものとなります。その人を遠くから見ているだけで、相手のそばにいれば尚のこと、ましてちょっと言葉を交わすだけで、無限の喜びを感ずるようになります。
恋をする人は自分自身の理想を相手に移入しますが(男が〔特に好きな女性には〕処女を求めるのは、男はその処女の中に神聖さ感じ、それに憧れます。その憧れ神聖さを自分のものにしたい、という心があるから、男は処女を求めるのです)その理想の相手と、自分もその女性から思われたい「全世界で私が一番愛するのはあなたです」「他のどの男性よりもあなたと一緒にいることが幸せです」と言われたいと思い、そのためには自分の人格を高め、教養知識を深め、その女性の理想の男性となれるよう努力します。
女性もまた男性に対して、男性からそのように言われ、そのように思われたいと思います。
そのようにして、自分の人間性の向上を自覚し、その向上をお互いに認め合えるような恋愛は正しい恋愛ですが、恋愛と言う言葉によって、それがすぐ性欲に結びつき、お互いの人間性の向上など認められず、むしろその反対に低下、低卑の感情が伴うのならば、それは正し恋愛とは言えず、恋愛と言う言葉によって偽装された単なる野合にしか過ぎないのです。
(いろいろ忙しいんだから、朝も早くから〔というか真夜中でしょ〕見なければいいのに…と思うのですが〔笑〕)



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