>>ブログトップへ

5月 07 2010

なぜ宗教家の罪は重いのか

10:11 AM ブログ

ある方から「園頭広周師③で、同じようなことを言っても、政治家と宗教家では宗教家の方が罪は重いと書かれてありますが、同じようなことを言ったのなら罪も同じなのではないですか」という質問がありましたので、今回はそれに答えることにします。

たとえば宗教家と政治家が、同じ間違ったことを言ったりやったりしたとします。すると政治家の場合はその人が属している党や支援者以外の人たちから、それを指摘され集中砲火を浴びます。(今、問題になっている政治家たちがよい例です)したことによっては属している党や支援者の中からも間違ったことを指摘されることもあり、良い悪いがはっきり分かります。

それに対して宗教家の場合は、その人が教祖で大勢の信者がいたとしますと、その教祖が間違ったことを言っても、信者のほとんどの人たちが、教祖の言ったことを間違いと思わずそのまま信じてしまうのです。

たとえば国会で(政治家がこういうことを国会で言うはずないのですが、あくまでたとえばの話です)「性は罪悪だから、みなさんそういうことはしないようにしましょう」と言ったとします。

すると他の党の人たちから「性が罪悪で皆がしないようになったら、子供が生まれてこなくなり、この世が滅んでしまうではないか」「(性を罪悪と言った人が家庭を持ち子供がいる場合)人には罪悪でするなといいながら自分はしているのか」「性が罪悪という根拠を言え」など、まっとうな議論がなされ、そのことが間違いだと分かります。

ところが同じことを宗教家が言うと、それは正しいと皆が思ってしまうのです。

大教団の教祖が家庭を持ち子供もいるのに、「性は罪悪です」と堂々というと多くの信者が、それをそのまま信じます。これを教祖の無謬性(むびゅうせい・その教祖の言うことに誤りはない間違いはないと言う意味)といいます。(オウム真理教が起こしたサリン事件などでもその事実がよく分かります)

つまり同じ間違ったことを言っても、政治家は間違いを指摘され、宗教家はそれが正しいと思われてしまうのです。すると間違いを正しいことと信じ込まされた人たちはどうなるでしょう。性を罪悪と思わされた夫婦は、性生活を行うのも罪の意識を伴います。なかには性生活をしなくなる夫婦も出てくるでしょう。結婚しない人まで出てくるかも知れません。宗教家が間違ったことを言えば、それを聞いた人の生活はもちろんのこと、その心まで蝕んでしまうのです。

私が同じようなことを言っても、政治家より宗教家の方が罪が重いといったのは、このような理由からです。

政治家の言葉は現実社会を支配しますので、現実的に考えられまっとうな議論がなされます。たとえおかしな政治家が、おかしな政治をしても物質的には困ることはあっても、人の心まで蝕むことはありません。ところが宗教家の言葉は精神的な部分を支配します。仮にそれが物質的には損をしなくても心は蝕まれます。

人にとって一番大事なものは心です。心がいくら健康でも、食べるものがなかったり病気をしていたら不幸ではないか、だから肉体の方が大事だ、と言う人もいますが、それは違います。人は健康な(まともな)心さえ持っていれば、何とか働けますし、病気といってもその病気に負けない心をその人が持つならば、決して不幸ではないはずです。

体がどんなに健康でも、たとえばうつ病にでもなればまともに働くことができず、憂鬱(ゆううつ)な毎日が続きます。心に大きな悩みがあれば、お金がたくさんあり毎日うまいものを食べたとしても、それを幸せとは感じないでしょう。つまり、すべての元は心にあるのです。

この世で一番悪いことは、人の心を蝕むことなのです。殺人を犯す人は人の肉体を殺しますが、心までは殺しません。しかし、間違った宗教家は人の心を殺します。したがって間違った宗教家の罪は殺人者よりも重いのです。しかし、この世では殺人者の罪は裁かれますが、間違った宗教家の罪は問われません。

このことは心の世界を勉強しないと分からないかもしれませんが、それほど心の世界を説く宗教家の責任は大きいのです。

精神の世界、心の世界を説く人の責任の重大さを知ってください。

0コメント

Trackback URI | Comments RSS

コメント記入

Spam Protection by WP-SpamFree


あなたは人目の訪問者です。