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3月 17 2012

仏陀をめぐる女性たち・ヤショダラ

10:24 AM ブログ

園頭先生は実に女性の心理をご存知の方でした。よくここまで女の考えが分かるものだな、と感心したことが何度もあるのですが、その女性がこのような心になると男は喜んで仕事をするようになる、ということも含め、女性の心を実によく現されたご著者があります。

それが「仏陀をめぐる女性たち」なのですが、このご著書はブッダに縁があった女性の、その中でも、特に優れた心の持ち主であった女性たちの心と行いを書かれたものです。

その本を参考に何人かの女性を書いてみましょう。(たしか2009年の七月のブログでもマツリカ、ペシャキヤ、スジャータの三人の女性を書いたと思います)

最初はブッダ(ゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏)の妻でありました“ヤショダラ”から書きたいと思います。

釈迦族の王子であったゴーダマは二十九歳の時に城を飛び出し出家します。そうして六年後に悟りを開かれブッダとなられるのです。

その城を飛び出した時のゴーダマには妻のヤショダラと一子ラフラがいました。園頭先生はヤショダラのことを次のように書いていられます。(「仏陀をめぐる女性たち」より抜粋します。以下のものはすべてこのご著書よりの抜粋です)

<仏典には、カピラの城の宴会の後、ゴーダマ・シッダルタは誰にも知られずに城を出たと書かれている。しかし、私は思う。

結婚するとますます夫は瞑想にふけることが多くなった。普通の人とは違う夫の日常を見て、いつかは夫は出家するのではないかということは、聡明な妻は感じていたに違いない。ラフラが生まれても、普通の人のようにはわが子を愛さない夫を見ては、夫はいつかは城を出るに違いないと感じ、ただその時が少しでも遅くあるようにと思っていたに違いない。

ゴーダマ・シッタルタが城を出られる時のヤショダラのことを書いたものはどこにもない。だがわたくしは、ヤショダラは、最愛の夫が城を出て行くのを知らなかった筈はないと思う。

その夜、城の奥では酒宴が開かれていた。踊り子たちのかん高い嬌声や男達の笑い声が聞こえてきた。その騒ぎにまぎれて出城されたわけであるが、親や釈迦一族、妻子を捨てて出家される決心を固められた釈尊の様子が、いつもとは違っていることを愛する妻が見逃す筈はない。わたくしはヤショダラが、夫の出家の気配すら感じなかった愚鈍な女だったとは思いたくない。すべてを知っていて、その上で出城していく夫を許したのだと思う。>

この後、ヤショダラがブッダとなった夫ゴーダマと再会されるのは、十二年も後のことでした。以下抜粋します。

<放つ愛の尊さ

ヤショダラは、女の放つ愛の尊さを教えていてくれる。放つ愛は、夫や子供を偉大にするが、執着の愛は夫や子供をダメにする。

「放つ愛」それは「母の愛」である。女は母となってその人格を完成する。女が、女として妻としてだけにこだわって執着している時、そういう女は男をダメにする。

男は、大きな仕事をしようと思えば思うほど、家庭にかかわり合ってはいられない時がある。そういう時、妻は夫をして敢然として仕事に赴かせねばならない。女として、妻として、男から、夫から愛されることばかりを考え、いつも自分を中心として、自分の思い通りに、夫を子供を動かそうと思っている妻は、夫が仕事のことで家庭を留守にすることが増えてくると、それが不満のたねになり、夫は自分を愛さなくなったといって、夫に不満をいうようになる。

ヤショダラは、夫を自分だけのものとして夫を愛したかったに違いない。女は男の愛を独占したいと思うものである。愛するよりは愛されることによってより幸福感を感ずるのが女の性(さが)である。「惜しみなく愛は奪う」という。

もし、ヤショダラが、十二年ぶりに帰ってきた夫(仏陀)に対して、その夫を独占しようとして夫の愛を求めたとしたら、その行為は夫を煩悩の渦の中に引き落とすことになる。出家した夫に在家となることを求め、仏陀の座から一人の夫へと引きずり落とすことになる。たくさんの弟子たちを従えて近づいてくる夫であった仏陀を見た時、ヤショダラはその夫を放ったのである。夫をして全人類のために放ったのである。夫をして自分だけのものとして夫を独占してはならないことを瞬間にして悟ったのである。

愛されることばかりを願っている女ほど、男にとってうとましいものはない。そういう女は、ああしてくれない、こうしてくれないといって夫に不足ばかりをいう。

大きな仕事をしようとする夫は、家に帰っても仕事のことで頭がいっぱいで、家庭のだんらんの大事さは知っていながら自分一人で考えていないことがある。そういう時、夫をして充分に考えさせ、大きな仕事をさせるのが、女が母となった時の愛である。

歴史を動かすほどの大きな仕事をした男は、単なる家庭の小さな愛にとどまってはいられなかった。夫をして偉大なる仕事に赴かせ、男としての役割を果たさせた。

母となった女の愛は、その夫がすべての人を愛する愛となって多くの人々を生かすのである。仏陀が仏陀として全人類のために「法」を説くことができられたのは、ヤショダラが、夫を放ったからであった。

偉大なる使命を持った一人の男を、女として妻としての小さな自分の愛の中に閉じ込めておこうなどとは思わなかった。

わたくしは仏陀を拝し、仏陀を思う時、その仏陀の背後に、仏陀を放った一人の女、ヤショダラの放つ愛の大きさを思わずにはいられない。>

少々、自分に気に食わないことをしたからと、それで嫌がらせのようなことをしている女では、それは男をダメにしてしまいます。(それは愛を出しているのではなく、我を出しているに過ぎないからです。)

母性本能という言葉はありますが、父性本能という言葉はありません。それだけ女が母となった時の愛は深いのです。妻は夫の妻としてあらねばなりませんが、時には夫の母として、そして時には夫の娘として、夫に接し尽くさねばならないのです。

ヤショダラのように、妻として母として夫に放つ愛を出した時、初めて男は大きく成長していくのです。

2コメント

2 コメント to “仏陀をめぐる女性たち・ヤショダラ”

  1. おか〜ノ2015/08/25 at 9:03 PM

    個を執着を理解し克服したなら
    男も女も関係ないのでは?
    人は感傷があり、考え、思いやりのある生き物と思います。
    しかし、パンドラの箱の様に欲から苦しみを産み
    幸せからは程遠い状態を綺麗事で包み隠し
    浅い考えで真実から背をむける本能もあるようです
    私は人類全てが幸せに人生を全うし苦しい時も助け合い
    笑顔あふれる世の中を夢見ていました。
    仏陀のおっしゃった通り、
    いや、この世は一種の地獄です
    長文失礼しました。

  2. gtskokor2015/08/25 at 9:34 PM

    たしかに、肉体の外袋(外見)以外は男も女も同じなのですが(内臓の男と女の違いは子宮があるかないかだけです)生まれて来た使命が男と女では違います。
    そのような使命を通し、男と女は神の子として神の愛と慈悲を育てていくものなのです。(人間は神の子ですから)
    人間と動物は違います。
    私たち人間は、現世がどれだけ地獄であっても、天上界をこの世に現さなければいけないのです。

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