3月 31 2012
宗教のおかしさ③
江戸時代の檀家制度ができた後の僧たちと比べ、鎌倉時代の僧たちは曲がりなりにも法を説いて人々を教化し、それで布施をもらって生活していたので、それなりに人の悩み事の解決方法や引導の渡し方などわきまえてはいました。
しかし鎌倉時代に、法を正確に理解していた人(如来)が出ていたわけではありませんので、それはあくまでもそれなりの法しか説けませんでした。
それに鎌倉時代の大衆は貧しく、また封建制度ということもあり(武士も含めた)多くの人々が、この世に何の喜びも見出すことができませんでした。そんな中でせめて来世だけでも希望を持たせ、一日一日を生かせようということで「死ねば極楽に行く」「念仏を上げながら人を切れば極楽に行ける」という説き方をしました。
しかし、このような説き方は決して正しいものではなく、時代にあわせて方便で説いたに過ぎなかったのですが、方便もそれを正しく理解する人が現れないと、多くの衆生はそれをそのまま信じてしまうのです。
現在の日本は釈尊より宗祖といわれる、法然や親鸞、日蓮といわれる方々の方が有名で尊敬している人も多いのですが、残念ではありますが、このような方々でも如来の神理を正しく伝えている人は一人もいません。
菩薩といわれた親鸞や日蓮でも、親鸞は念仏をひたすら唱え、死後の極楽往生だけを求めさせました。日蓮は愛と慈悲を説きましたが不徹底であり、他力信仰の域を出ませんでした。
鎌倉時代は時代が時代であり、説き方にも限界があったと言えなくもありませんが、しかし単独で出生される菩薩は、如来の教えが消えない程度に法を語る使命しかなく、それはそれだけの使命なのであって、本当に力のある菩薩はやはり如来とともに生まれ、その如来の教えをより分かりやすく多くの衆生に説くのであり、それが本来の菩薩としての使命なのです。だから親鸞や日蓮の説いていた仏教は不完全なものであり、完全な釈尊の教えが説かれているわけではないのです。
現在の日本で宗祖として有名な方々(親鸞や日蓮は菩薩ですが法然はその一段下の世界の人です)でも、その教えは完全なものではなく、結局死後の幸せしか説くことができなかったのです。
鎌倉時代の僧でもこの程度なのですから(ということは、その宗祖の教えを現在まで、そのまま信じている浄土真宗や日蓮宗、その他の宗派では救われないということになります)江戸時代に入り檀家制度ができた後の僧たちでは、人を救うことなどまるでできませんでした。
ですから檀家制度ができた後の僧たちは、ただ葬式の時にお経を上げるだけで、民衆の悩みの解決策など分からないのです。例えば真宗系のお寺など、何か信者が悩み事を言ってきても「念仏を唱えて後生を願いなさい」と言ってそれで終わりです。
祈祷やお寺参りなども、それは(寺の維持のため)商売で始めたものですから、現世利益(大願成就、良縁成就、家内安全、健康幸福、商売繁盛、厄除開運、交通安全、無病息災などなど)ばかり説いて(その他、開帳、出開帳、お札などもすべて人を集めてお布施を稼ぐために始めたのです)本当の宗教の意義である「人格を向上し、霊を磨く」ということをいう僧は一人もいません。
つまり既存の僧たちは皆宗教とは「死後の極楽と現世利益を求めるものである」と思い込んでいるのです。(死後の極楽を説いている割には現在の僧たちは霊の存在、あの世の存在を認めていませんが…何か支離滅裂ですね)
このような僧たちの間違った考えが、仏教を堕落させ仏教を、ただの葬式仏教とさせていったのです。
しかし、これでは人は救われません。
このような既存の宗教の反作用として起きてきたのが新興宗教でした。
(昨日からプロ野球が開幕しました。そういえばゴルフも〔まだ女子プロの方だけですが〕開幕していますね。今年は懐かしい選手も戻ってきていますので、応援しに観戦に行こうかとも思いますが、売り上げがなければそれもままなりません。しかし、どこにいても応援は出来ます。みなさん今年も頑張ってください、応援しています……そういえば朝のニュースも来週からリニューアルされるそうですね、そちらも楽しみにしています、頑張ってくださいね加藤さん〔笑〕)



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