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5月 08 2010

法を伝えるということ

10:49 AM ブログ

最近、少しではありますが私のホームページを見る人が増えたような気がします。私のホームページを見ている人が、周りの人に勧めてくれたのかも知れませんが、ありがたいことです。人に勧められて私のブログを読み、仮にその人が「なんじゃこれ」と思われてそれ以上私のブログを読まなくなったとしても、私のブログを勧めた人は徳を積んだことになります。

なぜなら勧めた人が一度でも私のブログを読めば、高橋先生や園頭先生が説かれた法をその人は知ることになります。仮に、その人が一度私のブログを見ただけでそれ以降一切見ることがなくても、その人の心の中には法の種がまかれることになり、その種がいつか芽を出すことになるからです。人によってはそれが、今生ではなく来世になるかも知れませんが、その人の心が整ったときに確実に法の芽は出てくることになります。

すると私のブログを人に伝えた人は、今生だけでなく来世まで徳を積むことになり、これほど得な話はありません。大いに私のブログを宣伝していただきたいものですが、前回私は心の世界を説く人の責任は重大と書きました。

では責任重大な心の世界の話をしている、私の言っていることは正しいのでしょうか?

あれはダメこれもダメと批判して、ではお前の言うことに間違いはないのか、ということになりますが、少なくとも悟りをひらかれている高橋先生や園頭先生の法には間違いはないでしょう。間違いがあるとすればそれを伝える私にあると思います。現実に高橋先生や園頭先生の名を使って人を集めている人はたくさんいますし、高橋先生の名を使って多くの人を集め大教団になっているところもあります。そういうところが正しく法を説いているかといえば、高橋先生や園頭先生の名を利用して人を集めているのですから、高橋先生や園頭先生のいわれたことを、そのままいっている部分は正しいのですが、自分の我をいれてしゃべっている部分は正しくないということになります。つまりそのような教団は正しく法を説いている部分もあり、正しくない部分もあるということです。ということは正しくない部分があるなら、その教団は正しい法を説いている教団ではない、ということになります。

少しでも間違いがあるのなら、それを正しいとはいいません。心の世界、特に如来が説かれた法を伝えるということは、それほど厳しいことなのです。

高橋先生は、自分が説く法のことを『神理』という言葉を使われました。しかし今まで長い間、宗教、哲学、思想関係では『真理』という言葉が使われてきました。高橋先生は「正法は神がつくられた法(理)であるから人間の我の介入は許されない。だから私の説く法は神理という言葉を使うのである」といわれました。

つまり如来の説く法とは神がつくられたものであり、神の心がそのまま言い表されているものなのです。だから高橋先生は自分が説かれた法のことを『神理』といわれたのです。この『神理』という言葉は、神の心を最もよく知るブッダと呼ばれる方だけが使える言葉であり、園頭先生でさえ『神理』という言葉を使うのをためらわれていたほどです。

ところが、高橋先生の説かれた教えを真似て自分の我の入った教えをいい回り、平気でこの『神理』という言葉を使ってニセの教えを説く輩が増えたため、これ以上高橋先生の教えを曲げてはならないということで、園頭先生もやむなくこの『神理』という言葉を使われたのです。

しかし園頭先生がためらわれるほど『神理』という言葉は深く重いものなのです。

先ほどの話に戻りましょう。「では、お前の言うことに間違いはないのか」ということですが、大丈夫です。私のいうことに間違いはありません。

なぜなら私は、高橋先生と園頭先生の説かれた法を伝えようと決めたときから、既に次のような祈りをしているからです。

「神よ、もし私が法を間違うようなことがありましたら、あの世に引き上げてください」

このような祈りは正しいのできかれます。

私は自分の命などとっくに神に預けてあります。だからこそ自信を持って高橋先生や園頭先生が言われたことは正しいと言うし、ああいう言い方はおかしい、この言い方はおかしいと言っているのです。高橋先生や園頭先生の名を語り、人を集めている人の中で、一人でも私のような祈りをしている人がいるのでしょうか?現在ある宗教団体の中の教祖や神の言葉を語るといわれる人で、一人でもこのような祈りをする人がいるのでしょうか?多分いないでしょう。こんな祈りをその方々がすれば、多くの人が死ぬことになるからです。

如来でもない者が、精神の世界、心の世界を説くということは非常に危険なことなのです。間違ったことを説けば、それを聞いた人の心を腐らせます。この世で人の心を腐らせる以上の罪はないのです。心の世界を説く人は私のような祈りをしてから説いてほしいものです。「神よ、私の説いているものが間違いでしたら、私をあの世に引き上げてください」と。

少なくとも私はまだ生きております。(死のうと思っても死ねなかったくらいですから)ということは現時点では私の言っていることは正しいということになります。

ですから、このブログを読んで、これは人に伝えてもいいと思われた方は、自信を持って人に伝えてほしいと思います。

法を曲げることが、どれほど大きな罪になるのかを知らない人も多いのですが、正しい法を伝えることが、どれほど大きな徳となるかを知らない人も多いからです。

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