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11月 07 2012

キリストの死

10:42 AM ブログ

イエス・キリストはなぜ磔になり死ななければならなかったのか?

そうしなければキリストは、あの時あれ以上福音を説くことができなかったからです。

当時のイスラエルには、キリストに反感を持つ者がたくさんいたのです。(現在の人々からすれば不思議なことかもしれませんが、当時の人々からすれば、キリストはこれまでにないことを言い出し〔福音〕次々に奇跡を現すのです。これまで通りの生活をしたい人や、妬みやひがみからキリストに反感を持つ人はたくさんいたのです…あれ?現在の私の状況とそっくりですね)

しかし、それは仕方がないことでした。皆、肉体を持ってしまうと神のことや、あの世である実在界のことをすべて忘れてしまいます。多くの悩みや執着を持つ者が多く、また時代が時代であり、悪魔に憑かれた者も多かったのです。

その為、どうしてもキリストを受け入れられない人がたくさんいました。このような状況ではもうキリストは磔になり死ぬしかなかったのです。

しかし、キリストは神を疑うことはありませんでした。キリストはこの世である現象界に出世される前の実在界で「もし、私がそこまでしか法(福音)を説けなかったら、私を裏切る者によって磔にされ、実在界に帰るであろう。しかし、私はこの世に復活し、多くの者に魂の偉大性、転生の偉大性を肉体を現さず、光子体で皆の者に説くであろう」と言われ、その言葉通り弟子たちの前に光子体の姿で現れます。(復活)

キリストは最後の晩餐の時に、この後起きるであろう、すべてのことをすでに知っていられました。

ですからキリストは、自分が磔になることを逃れようと思えば、いくらでも逃れることができたのです。しかし、敢えてキリストは磔から逃れようとはされず、自ら進んで磔にかかられるのです。(私はこのことを知って聖書を読むと、裁判にかけられた後のキリストの態度は、そのように思えてなりません)

キリストは、この自分の身を犠牲にしないと、福音は世界中に拡がらないということも知っていられたからです。

キリストには、本当の神の教え(福音)を世界中に伝えるという、重大な使命がありました。その使命を果たすため、キリストは自分から磔になって命を絶つ、ということを自ら決められたのです。

その命をかけられたキリストの願いは弟子たちが果たし(それもキリストの復活という奇跡を観せられ、光子体のキリストから懇々と諭されて、やっと弟子たちはやる気になるのですが)その後キリストの教えは世界中に伝播されます。

このようなことを考えますと、必ずしもキリストは、十字架にかかられ死ななくてもよかったのではないか?とも思えます。

キリストは実在界で「もし私がそこまでしか法を説けなかったら、私を裏切る者に磔にされる」と言われたのです。では、もっと法が説けていたらどうなっていたでしょうか?

当然キリストは磔などされず、福音をもっと多くの人に説かれ、もっと多くの奇跡を現された、ということになります。

つまり当時の人々の心が、キリストの説く福音の期間を短くし、もっと多くの奇跡を現されることも拒んでしまったということです。(そうですよね、当時の人の心がもっと柔軟で広ければ、キリストは磔にされることはなく、そうすればキリストはもっと長生きをされたはずですから、福音も多くの人がたくさん聞けて、奇跡もより多くの人に与えられたはずです)

そのキリストの時と同じ状況が現在の日本でも起きています。(自分で言うのもなんですが私のことです)

しかし、今度は法を説いている者が犠牲になるということはありません。(そうなっても法が世界に拡がらないからです。なんせ協力者ゼロに近いですから)

今度は逆に法を無視している人たちが犠牲になることになります。それは高橋先生の予言を知れば分かります。(それは次回に書きます)

犠牲になる前に多くの人がそのことに気づかなければならないのです。

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