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2月 24 2013

続、如来は愛と慈悲の塊

11:06 AM ブログ

もう少し園頭先生のことを書いておきましょう。

園頭先生は、どこかに法の話をされに行かれる時は、必ず何か手土産を持っていかれていました。手ぶらでいかれたことなどなかったそうです。

「何人かの人が法を聞きたいといっていますので」といわれれば、どこにでも出向かれ、それだけ何人かの人を集めてくださった人はさぞ大変だったでしょうと、その人を集めてくれた人たちに気を使われ、何かを買って持って行かれていたのです。普通そんなこと考えられるでしょうか。

普通なら、先生がわざわざ来てくださったと呼ばれた方が気を使い、お礼とは別に何かを買って先生に渡される、というなら話も分かりますが、まったく逆で、わざわざ行かれる先生の方が、人を集めてくださった人に気を使い、何かを買っていかれるというのですから驚きます。

現実に、名古屋で講演会をされる時なども、先生は必ず何か手土産を持ってきてくださり、講演会を手伝ってくれた何人かの人に、それを渡されていたそうです。(先生は福岡に住んでいられましたので、福岡名産の明太子とかポテトとかをよく買ってきていられたそうです)

そればかりか、そのような土産を十個も二十個も自分で買って、自分で持ってこられていたそうです。ご家族の方が、そんなの一人で持っていったら重いでしょうと、宅急便で送ってはどうかと何度もいわれたそうですが、園頭先生は、そんなことしなくてよいと、自分で持っていくからよいと、一度も宅急便で送られたことなどなかったそうです。

インドに行かれた時も(正法会では年に一度、必ずインドに行っていました。お釈迦様が当時法を説かれたところを回り、当時のことを思い、本当のお釈迦様の教えを園頭先生がいろいろ解説され教えてくださるのです)会員の人たちの写真を何百枚も撮ってあげて、それを日本に帰国されてから、会員の人が写ってる写真を何枚も現像され、その写真一枚一枚を丁寧に仕分けされて、そうしてその会員の方が写っている写真を、その会員の方宛てにわざわざ写真と手紙までつけて、封筒に入れて送っていられたそうです。

先生は家に帰られても、正法誌の原稿は書かなければいけない、個人指導の電話はかかってくる、講演会や研修会の打ち合わせはしなければいけないと、やられることはたくさんあり、お忙しかったにもかかわらず、そのインドの時の写真の手伝いを家族の者がするといっても、全部自分でするからいいと、一切ご家族の方に手伝わせなかったそうです。

奥さんが不思議がり「あなたは忙しいのに何でそんなことを手伝うのもいけないの」と聞かれると、園頭先生は、自分が直接それをやるのと、人にやってもらうのとでは、会員の方の嬉しさが全然違うだろうといわれたそうです。

つまり、同じように写真と手紙が同封されたものが園頭先生から届いても、それを人がやったものと直接先生がやったものとでは、受け取った会員の人たちの喜び方も違うだろう、だからお前たちは手伝わなくていいと先生はいわれたのです。

そこまで相手のことを考えられるでしょうか? 

先の手土産の件でもそうですが、普通なら先生が土産をくれたということで、それが宅配で届いても十分私たち会員には嬉しいはずです。しかし、それを園頭先生は自分が買って自分で持って行き、自分が会員の方一人一人に手渡しすれば、もっと会員の方は喜んでくれるだろうと思われ、そうされていたのです。インドの時の写真でも、人がやろうと誰がやろうと、先生から写真と手紙まで添えて送られてくれば、会員は誰だって嬉しいはずです。しかし、自分が直接それをすれば、会員の方はもっと喜んでくれるはずだ、園頭先生はそう考えられ、そのようなことすべてご自分でされていたのです。

私たちの考えからすれば、ちょっと信じられないくらい園頭先生は相手の気持ちを考えられ、人の喜びを我がことのように思われる方でした。(前回私は、園頭先生は食べ物の好き嫌いがなかったと書きましたが、この園頭先生のお心を知ると、本当はそうではなかったのではないかと思えます。園頭先生は甘党で饅頭やあんみつなどが大好きでした。であるならば、辛いものはあまりお好きではなかったのではないかと想像できます。しかし、先生は自分の嫌いなものを敢えていわれなかったのではないか、自分があれも嫌い、これも嫌いといえば、忘年会やら食事会やらを企画された人が気を使う、だから自分の好き嫌いなど一切いわず、出されたものはすべておいしくいただく、先生はそう思われ、自分の嫌いなものも、おいしい、おいしいといわれて食べていられたのではないか、私にはそう思えてなりません)

如来は愛と慈悲の塊、それをそのまま実践し見せてくれたのが園頭先生でありました。このような心一つとっても、園頭先生がどれだけ偉大な方であったかお分かりいただけると思います。

私たちは皆、この如来の心に学ばなければならないのです。

そうして、このような愛と慈悲の心を実践できた時、初めてそこで神の心を知るのです。

少しでも如来の愛と慈悲の心を知ってもらえれば幸いです。

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