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11月 05 2010

園頭広周師⑭

10:06 AM ブログ

園頭先生の話が途中で止まっています。もう書いてしまわないといけないと思っていますので、一気に書いてしまおうと思っています。

園頭先生は、伝道先で次々と起こす奇跡が評判となって、将来生長の家を背負って立つ人材として嘱望され、生長の家に迎えられました。

このころ「人間神の子」と宣言しているのは生長の家だけでした。他の既成、新興宗教のほとんどが「人間罪の子」を前提に教義を説いていました。園頭先生は「生命の実相」を読んで、宇宙即我を体験され数々の奇跡も起こされ、その奇跡をご自身でも体験され、また先生が指導された方が皆よくなっていった事実から、この生長の家の教えを普及することが、世界の平和に繋がると信じていられました。(実際にはそうではなく、過去世からの修行の積み重ねが、宇宙即我の体験や奇跡を起こさせたのであり「生命の実相」は園頭先生の過去世の力を引き出す、きっかけにしか過ぎなかったのですが、この時の園頭先生はまだそのことに気づいていられませんでした)

昭和二十七年園頭先生は鹿児島で地方講師として、布教を始められます。すると、それまでは二ヶ所しかなかった生長の家の支部が、園頭先生が行かれて指導されると奇跡が起きて次々と人が救われていきましたので、生長の家の教えは救われると大評判になり、多くの人が生長の家に入信され、わずか二年ほどの間に五十ヶ所くらいに増えてしまいました。

そのことが生長の家本部にも伝わり、昭和三十年、園頭先生は異例の早さで生長の家の本部講師となられます。生長の家の本部講師の中では最年少の若さでした。

しかし、このころから生長の家は言うこととやることが違ってきました。(詳しくは拙著「華光如来」を参照にしてください)園頭先生は会議のたびに「そのような教義はおかしい」と正論を言われ、谷口総裁に意見も言われたのですが、最後には生長の家の総裁はじめ幹部のほとんどの人に嫌われ、生長の家を去ることになります。昭和四十七年のことでした。

しかし園頭先生は、総裁やほとんどの幹部に嫌われながらも、最後まで生長の家が正しい教団になることを願われ、生長の家をやめられる時、二代目総裁であった谷口清超総裁に「生長の家改革意見書」を出されます。

「もうやめるのだから関係ない」ではなく、最後まで生長の家を思われた園頭先生の愛の深さがよく分かります。

それから一年後、園頭先生は縁生の師である、高橋信次先生とお会いすることになったのです。

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