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5月 04 2013

続々、起きている現象の意味

11:22 AM ブログ

間違いないようにしたくても間違えてしまうのが、この世の修行です。特にこの辺りの人は、私に何年も嫌がらせして、祈りも邪魔をする、ブログを書くのも邪魔をすると、ずいぶん恐ろしいことを平気でやっている人が何人もいます。(家の中でブログ書いているだけでも、パソコンのカチャカチャ音を立てるのがうるさいと、嫌がらせのようなことしている人がいますからね、呆れるくらいの心の狭さです)

くどいようですが、今起きている現象の意味をもう少し詳しく書いておきましょう。

園頭先生の悪口をいったばかりに亡くなった人がいます。それは事実であり、そのような人を私は何人も見ました。では、その亡くなった人は“園頭先生のせい”で亡くなったんでしょうか?

もし、そうであるならば、そのような出来事は園頭先生の呪いということになり、園頭先生は悪魔であったということになりますが、そのような判断が正しいのでしょうか?

園頭先生が悪魔であったなら、なぜ数百、数千という人を癒されたのでしょう?そうして正しい教えを説かれ、多くの人々を救われたのでしょう?あれだけ周りの人に気を使われ、自分の好き嫌いまでいわれず、何でも出されたものはおいしくいただかれたのでしょう?園頭先生は、そのような態度をずっと続けていられたのです。悪魔が(仮に人を騙すためとはいえ)そこまでのことをするのでしょうか?

少し園頭先生のことを書いただけでも、やることが悪魔の所業だとは思えませんが…?

それに園頭先生が、指導された人から必要以上に金を取った、という話も聞いたことがありませんでしたし、光を入れられ癒された人からも、やはり無理やり金を取ったという話も聞いたことがありませんでした。ただし、布施してくれたものは、それは無条件でいただかれていました。それが多額のお金であろうと、少額のお金であろうと物であろうとです。如来は相手が出してくれた愛は素直に受け取られるからです。それも一つの相手に対する愛だからです。

その布施の件で面白い話があるのですが、ある人が園頭先生に二百万ほど布施されたそうです。その時、園頭先生は嬉しそうに「ありがとうございます」とその人にお礼をいわれて、その金を受け取られたそうです。

ところが園頭先生は、その金を出してくれたその人に対する態度が、布施してくれた前も後も全然変わらなかったそうです。それで二百万布施したその人が、園頭先生の奥さんに「私は二百万も園頭先生に布施したのに、先生は布施した後も私に対する態度が全然変わりません。私は、なけなしの金を二百万も先生に布施したのです。もう少し気を使ってくれてもいいではないですか」と文句をいわれたそうです。

それを聞いた奥さんが、園頭先生にその話をされ「もう少しあの人に気を使ってあげたら」といわれると先生は「あの人は好きで私に布施されたのであって、それを私は受け取っただけ。それが自分の徳となって得をするのはあの人なのだから、何で私がそれ以上あの人に気を使わないといけないのか」といわれて、その後もその人に対する態度は変えられなかったそうです。

園頭先生は多い金額を布施した人にも、少ない金額を布施した人にも、また布施などしたことがない人にも同じように接せられ、誰を特別扱いされることもありませんでした。如来とは相手の愛は素直に受け取られますが、それで人を差別するということは決してされないのです。如来に愛の行いをされる人は、どのような形であれ喜ばれたのです。(布施するばかりが愛の行為ではありません。如来の法の流布の手伝いをするということも、如来に対する愛の行為ですし、如来の法を学ぶということも、如来に対する愛の行為です。だから園頭先生は正法会の会員の人たちは皆同じように愛されたのです…しかし、園頭先生がお金を平気で貰うのがいけない、あの人は金の亡者だ、といって会を辞めた人もいました。残念ですが、そのような人の考えは浅すぎるのです。如来の愛の深さが分からないのです)

金を、必要以上に相手から取るということは論外ですが、お金を受け取らないのがよいことだと勘違いして、なにか人にしてあげて、相手がお礼でお返しなどすると、そのお返しを断る人もいますが、それはまだ愛が足らないのです。

人に何かしてやりその人がありがたい、または助かったと思って、それでその助けてくれた人に対し、お礼をしたいと、それが金であったり、物であったりした場合、それは素直に受け取ってあげるのが、そのお返ししてくれた人に対する愛の行為であり、それをわざわざ断るということも愛がない、独りよがりな態度であるということを知らないといけないのです。

愛を人に与えることはもちろんのこと、相手が出してくれた愛も素直に受け取る、それが本当の愛ある人なのです。

このようなことを考えますと、愛ある行為をずっとされていた園頭先生が、悪魔であったとは、とても思えません。このブログを読まれている人はどう思われるでしょうか?

園頭先生が悪魔でなかったとしたら、最初に書きました園頭先生の悪口をいって亡くなった人は、園頭先生の呪いでもなければ、園頭先生のせいでもなく、やはり、そんな偉大な方(如来)の悪口をいったために天が起こされた、現象であったと思えますがそこはどうなのでしょう。

もし、天が起こされた現象であれば、如来の悪口をいったばかりに、その人たちは自らの命を亡くした愚かな人たちということになり、それは全部“自分自身のせい”ということになります。

では、私に嫌がらせをして不幸になった人は、それは私のせいなのでしょうか?それともその人たち自身のせいなのでしょうか?

逆にもし、園頭先生の時と同じような現象が現れているとしたら、私も園頭先生と同じ使命を持っているということの証明になるのではないでしょうか。だとしたら、そのような者に嫌がらせなどすれば、天はその嫌がらせした人に、恐ろしい現象を起こすことは必然なのではないでしょうか。

私はここに、高橋先生の教えを継がれたのは園頭先生であり、その教えを継いだのは私である、と何度も書いています。

私に嫌がらせなどして、恐ろしいことが起きた人がいるのであれば、それこそが、私が高橋先生の教えを継いでいる証拠となるのではないでしょうか。

今この辺りに、恐ろしい現象が起き続けているのであれば(まだよくサイレンの音が聞こえてきますから)それは、法を継いでいる者に対する態度が、あまりに悪い人が多いからではないでしょうか。

法を継いでいる者には“協力”しないといけないのです。

起きた悪い現象だけを見ていては事実は分かりません。やはり謙虚な心で自分が悪かったのではないか、という反省が真実を教えてくれます。そのような心の人が増えてこないと今起きている現象は止まらないのです。

追伸…この教えの座談会を今月十一日、二十一日に行います。興味のある方はぜひご参加ください。詳細は四月二十三日の“お知らせ”のブログに書いてあります。多くの人のご参加お待ちしています。

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