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6月 24 2013

お経の意味

10:43 AM ブログ

お経を見ますと、ずいぶん難しい漢字が並んでいて難解そうに思えますが、あのお経の意味を知っている人は、一体どれくらいいるのでしょうか?

一生懸命お経を上げる方はたくさんいますが、お経の意味を解説される方はあまりいません。ということは、お経の意味を知っている人も、あまりいないのではないかと思われます。

お経の意味を知っている人はいないでしょうね。もし、お経の意味を知っている人がたくさんいるようなら、ただ単にお経を上げるだけということはしないからです。お経を上げても何の意味もないことを知っているからです。(お経を上げても意味がない…またまた衝撃の事実です)

だって、お経は釈尊の説法が書かれてあるのです。上げても意味がないのではないでしょうか。(それも古代インド語でです)

例えば「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えている人がよくいますが、あれなど「ナーモ・アーミ・ダボー」という古代インド語であり、それを直訳すれば、神仏に帰依する、帰命する、という意味になり「南無阿弥陀仏」と唱えている人は、ただ「仏様の教えに帰依します」「仏様の教えに帰依します」と唱えているだけなのです。

そんな「仏様の教えに帰依します」といっているだけで、その人が救われると思いますか?救われるわけありません。本当に救われたいのなら、その仏様の教えをよく知り、その教えを実践しないと救われないのです。

ですから私は、お経など上げても意味がないといっているのです。(申し訳ありません、次々に現在の常識を覆す発言ばかりして、しかし、これが事実です)

このお経の釈尊の教えとは、釈尊在世当時のインドで、当時としては子供でも分かるような、普通の分かりやすい話し言葉で「正しい心のあり方」「正しい心の持ち方と行い」が説かれているのです。(なぜ、そんな分かりやすい話し方を釈尊がされたのかといえば、その当時の釈尊の教えを聞いた人は、一部の特権階級を除いた多くの人たちが、文字も読めない無学文盲な人たちだったからです。当時のインドはそのようであったのです)せっかく、そんな宝玉のような言葉がお経の中には書かれてあるのに、その意味を知ろうとせず、ただ上げるだけなど愚の骨頂ではないでしょうか。(二千五百年前のインドの日常語を、二千~千五百年前の中国の日常語で書かれたものが現在のお経です)

最初に仏教が日本に入ってきた時は、お経はただ上げるだけのものではありませんでした。

中国語のお経を日本語に分かりやすく書く訳経僧、中国語のお経をそのまま書き写す書写僧がいて、そのほかに説教僧という僧がいて、お経の意味を多くの人に伝えました。

その説教僧が、お経の意味を大衆に面白く聞かせるために、お経に書いていない話などもつけ加えます。やがて説教僧たちは自分の語り言葉に節をつけ、調子をつけて話すようになり、それが説教節となります。この説教節が始まりとなって、浪花節、浄瑠璃、講談、謡曲、小唄、民謡など生まれます。

人々の心を捉えて歌う流行歌も原点を探れば、説教節からきているのです。

このように、昔から多くの人々を楽しませてきたこれらのものも、元はといえば釈尊の教えを分かりやすく、世の人々に聞かせるためのものであったのです。

しかし現在は、お経に書かれてある有難い教えを、ただ上げるだけでその意味を知ろうとしていません。それではまったく意味がないのです。

何度もいいますが、昔の僧がしていたことに戻さないと、多くの人は救われることはありません。それが本当の信仰であったからです。

私がやっている“神の運動”とはまさにそれなのです。

追伸…昨日のニュースで、この前の女子高校生の集団パニックのことをやっていましたが、その女子高生たちの証言はよかったですね。(私がいったことを裏付けていました)そのことは明日書くことにします。

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