8月 14 2020
罪を持越すということ
いい加減、折れてはどうでしょう。昨日もいましたもんね。(無理して)嫌がらせをしてくる人たちがです。
しかし、そういう人たちにはまず天罰がくだります。もうくだっている人もいるのではないでしょうか。何度も書きますが、最近は天罰が早いからです。天罰覿面ということを地でいっているからです。
運転手など見ているとなんで嫌がらせをしてくるのか本当に不思議ですよね。これだけトラックが減っているというのにです。
やめとけばいいのにね。そんなブシュブシュ嫌がらせをしてくる人たちのどれだけ多くに、天罰がくだったか知れないからです。
それが分かっているにもかかわらずなんでやってくるんでしょう。そういう罰当たりな態度をです。本当に罰が当たっているのにです。
罰が当たりたいのでしょうか?それとも単に無理しているだけなんでしょうか?
もし、無理しているだけなら、これだけ愚かな態度もないのです。
なぜなら、そういう態度を取り続け、それで天罰を食らって命を落とすようなら、その人は確実に地獄に堕ちるからです。そうして罰が当たっているということは、それだけ神の心に逆らっているということであり、そういう不遜な態度を神に取ったまま死ぬなら、その苦しみはどんな地獄に堕とされるより苦しいからです。
そんな苦しみを味わいたいのですか?
皆がそうしているからと、同じようなバカな真似は自分はしない方がいいでしょう。そういうバカな真似をしている人たちは例外なく苦しんでいるからです。(まあ、書くだけ無駄な人も多いのですが、きく人はきくでしょうから)
だから、神理を無視して罰当たりな態度を取っている人たちは、ずいぶん罪深い態度を取り続けているということであり、その罪は来世、再来世まで持越(もちこ)すということになるのです。
罪を持越すということは苦しみを持越すということであり、それがどういう意味なのか。ちょっと具体的に書いておきましょう。その方が分かりやすいと思うからです。
昨日、大目蓮のことを少し書きましたが、その大目蓮がなぜ凶徒に襲われて死ななければいけなかったのか?その理由を書いておきましょう。
それが罪を来世に持越すということであったからです。
大目蓮(マハー・モンガラナー)はこのブログにも何度も書いておきましたが、舎利弗(シャリー・プトラー)と並ぶ釈尊の弟子たちの中では一番の高弟であり、釈尊の右腕が舎利弗であるなら、もう片方の腕は大目蓮であるといわれ、釈尊の二大弟子として舎利弗、大目蓮の名は仏典の中にも遺されています。
その大目蓮は舎利弗同様、よく釈尊の期待に応え、多くの人たちに釈尊の仏法を伝え、そうして自分自身もよく修行し、弟子たちの指導も欠かしませんでした。
そのようなたくさんの仏法の実践の結果、大目蓮は多くの神通力を持つようになり、後に神通第一と称されるようになります。(舎利弗は智慧第一といわれました)
その大目蓮は、いつも決まって禅定をする場所がありました。
大目蓮は昼間は釈尊の指示に従い、仏法の指導を受けたり、他の人たちに伝えたりしていますが、夕方になると決まってその場所にいき、その日一日の反省禅定をしていたのです。
それが大目蓮の日課であったのです。
そうして、釈尊の下で大目蓮の修行は数十年続いたのですが、釈尊晩年のある日のことです。
大目蓮はまたいつものように夕方になると、その場所に禅定をしに出掛けていったのですが、その日は大目蓮がなかなか帰って来ませんでした。
もう外は真っ暗です。それで大目蓮のことを心配した舎利弗が、釈尊の弟子たち数人に大目蓮の様子を見てくるよう頼みました。
数人の弟子たちが出ていってしばらくすると、その弟子たちは血だらけの大目蓮を運んできたのです。
驚いた舎利弗がどうしたのかと尋ねると、弟子たちが、どうも大目蓮様は他の教徒に襲われたようだと答えます。
実際にそうでした。日頃から釈尊や釈尊の弟子たちのことをよく思っていなかったバラモン教徒たちが、大目蓮がいつもその場所で禅定をしていることを知って待ち伏せし、その場所で大目蓮が禅定を始めると、上から大きな石を大目蓮めがけて投げ落としたようなのです。
その大きな石が大目蓮の頭に当たり、それで血だらけになって、その禅定している場所に大目蓮が倒れていたところを弟子たちに発見され、そうして運ばれてきたのです。
息も絶え絶えになっている大目蓮に向かって涙ながらの舎利弗が言葉をかけます。
「君ほどの神通力の持ち主がなぜこれほどの災難を防ぐことが出来なかったのか。君ほどの神通力があるなら、いくらでもこのような災いからは逃れられたはずではないのか」
その舎利弗の問いに苦しい息の中、大目蓮は次のように答えるのです。
「今日私が凶徒に襲われることは分かっていた。しかし、私はこのような死に方をしないといけなかったのだ。私は過去世で自分の両親に対しずいぶんひどいことをしてしまった。その過去世の罪の償いのため、私はこのような死に方をすることになったのだ」
そのように舎利弗に答えた後、大目蓮は息を引き取るのです。
大目蓮はすべて知っていたのです。自分が今日死なねばならないということも、そして、ひどい死に方をしなければいけないということも、そうして、なぜ、自分がそのような死に方をしないといけなかったのかということもです。
すべて知っていました。仏法の修行によって多くの神通力を得ることにより、大目蓮はそれを知ったのです。
大目蓮はお盆のいわれをつくった人で(もうそのことは何度も書いていますが)自分の死んだ母が地獄に堕ちていて、その母を救いたいがため年に三日ほど日を定めて生きている人たちに布施をする、それがいま日本でいわれているお盆のいわれとなったのですが(いま現在の日本では生きている人に布施することが死んだ人に布施することに変わってしまっていますが)それだけ親孝行であり、そうして仏法(神理)の修行も積んだ大目蓮でさえ、このように罪を来世に持越すということがあるのであり(過去世の親に対する罪…私もやばいんですが。〔汗〕)その持越した罪はです。
ずいぶん大きいのです。(自分が悲惨な死に方をしなければいけないくらいです)
神理をよく勉強し実践した大目蓮でさえこうなのです。では、神理の勉強などまったくせずにいて、その神理に逆らいまくっている人たちの罪は一体どうなるのでしょう。
もうはるかに大きいでしょうね。その罪は、大目蓮とは比べ物にならないくらいです。
それは起きて来ていることを知れば分かると思います。
皆さん方が神理を無視する前までは、これほどひどい天変地変も起きていなければ、コロナ禍もなかったのです。
そういうことは自分とは関係ない、といくらいい張っても、私は前からいっています。
この神理を無視するなら、災いは増えていくとです。
そのいった通りのことが起きていて、私は、このような災いが次々に起き出した理由は神理を無視し続けている皆さん方にあるといっているのです。
そういっている私には次々に奇跡が起き、それを無視し逆らい続けている人たちには次々に災いが起きています。
では、どちらのいっていることが正しいのかはもう明白でしょう。
そのような起きてくる現象が教えているからです。私の(神理を説く者の)正しさをです。
自分たちのしている大変なことを、もういい加減、気づきませんか。ずいぶん前から私はいい続けているからです。皆さん方の罪をです。そうしてそれは正しいことであるからです。
もし、このまま私のいうことを、このブログを見ている多くの人たちが無視し続けるなら、その罪は来世、再来世まで持越すことになります。
しかし、もしそうなるなら、その苦しみは言語に絶することでしょう。これほどの災いを世界中に現したのです。
このブログを見ている多くの人たちの罪は計り知れないものとなっているからです。(こういうことにどれだけ怒っても無駄なのです。悪いのは私のいうことを無視しているあなたたち〔災いを食らっている人たち〕の方であるからです)
神理をきいたのなら、その神理を説いている者のいうことはきかないといけない、そういうものなのです。
そんなこと知らないなどという、薄っぺらなことをいっているのは現代の人たちだけなのであり、昔の人たちは神理をきいたのなら、ちゃんと感謝の布施くらいはしたのです。
それが神理をきいた者の最低限の礼儀なのであり、その礼儀さえ理解しようとしないから多くの災いが現れるのです。
現代の(このブログを見ているだけの)人たちにはです。
その通りのことが起きています。そうして罪を持越すということの具体的な例も書いておきました。
これ以上の罪はつくらない方がいいと思います。これ以上罪を重ねれば、その罪は返しきれないくらいの大きさとなり、この後、自分自身を苦しめていくからです。(そうして、その苦しみは来世、再来世、その先に渡って続くのです)
何度も書きますが、もう大変なことが起きています。だからやれる範囲で結構です。ご協力願えませんか。この正法神理にです。
それが自分自身の(大変な)罪を消すことが出来る唯一の方法であるからです。



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