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11月 25 2018

大きな恩

昨日のことです。家の近くの交差点を渡って何気なく前を見るとずっと向こうまでよく見えるのです。(近所の人は分かると思いますが、蜆橋の通りです。太平通りの交差点を渡って前を見たら、その蜆橋の向こうまで見えました)

ずいぶん見晴らしがいいので少し驚いたんですが、その道に車がほとんど通っていなかったのです。だから、そんな向こうまでよく見えたんですが、これだけ向こうまで見えることは正月くらいしかないですね。

その道は広くはないのですが、普段からわりと車の通りは多いのです。(トラックもよく通ります)それが昨日はそのくらい(正月くらい)その道を走っている車は少なかったということです。

帰りも同じ道を通ったんですが、同じようにすいていました。本当にガラガラで正月のようでした。

その後、一号線を歩いていったんですが、やはり道路の先の方を見るとよく見えるのです。

しかし、一号線の場合は車が少ないというよりも(車もたしかに少なかったんですけどね)トラックが少ないのです。(ほとんど走っていませんでした)だから先の方までよく見えたのですが、本当に異様ですね。

いくら三連休の中日(なかび)とはいえです。

いくらなんでもすきすぎでしょう。ただの休日だというのに、あちこちの道路は正月三箇日(さんがにち)くらいの車しか走っていないというのですから。

もうトラックの運転手の顔をまともに見られないですね。(バスの運転手も同じですが)あまりに哀れでです。

だってそうでしょう。これだけトラックが減ってしまっては、もういつその走っているトラックの(私にブシュとやってくるトラックのです)運転手もいなくなるかしれないからです。

ムッとした顔をしてブシュブシュやっていく人もいれば、普通の顔をしてやっていく人もいますが、内心はもう怖くて仕方ないでしょう。

これだけトラックが減っていれば怖くないはずがないからです。

自分たちが乗っているトラックが、ドンドン周りからいなくなっていく。そういう状況で(そういう異様な状況で)普通でいられるわけがないのですが、それでも誰も態度を変えようとしない。本当に哀れというしかありません。

だから、運転手の顔をまともに見られなくなってきたといっているのです。

無理をしていることがアリアリと分かるからです。

私に対し、そういう態度は絶対見せないのでしょうが(見せたくないのでしょうが)この状況で怖くないはずがないのです。(運転手連中は何でトラックがいなくなっているのか?その理由もよく知っているでしょうから)もう無理をせず、頭を下げられてはどうでしょう。

素直に自分が悪かったと認めるなら、そこから救われる道がついてくるからです。

それは歩いている人も同じでしょう。難しい顔をして歩いている人が増えてきました。

ムッとして嫌がらせをしていく人も(または普通の顔をして嫌がらせをしていく人も)まだいますが、ずいぶん減りましたね。

そういう人もです。

そういうことをしていても、もう自分が危ないだけだと、どれだけ私のせいにしていても、もう悪いことは止まらないと、理解する人が増えてきているからでしょう。

これだけ悪いことが増えてきては、誰だってそれは分かるでしょう。それが分からず、いまだに私に嫌がらせなどしてくる人は、相当心が低い人たちです。

心が低いから、そのような冷静な判断が出来ないのです。

だってもう小学生だって頭を下げてきますから。(たくさん出てきましたよ。頭を下げてくる小学生がです。調子に乗って嫌がらせしてくるのもいるにはいますが)

小学生でもこの危ない、どうにもならない状況は理解できるのです。

それが大人が出来ないというのですから、そういう人たちは相当心が低いといわざるをえません。

それでどうされるのですか?

怒っている人たちは(心の低い人たちは)ほっとけばいいのですが(そういう人たちはもう少し時間が必要ですから)難しい顔をしている人たちはです。

モタモタしていると、手遅れになります。難しい顔をして歩いているだけでは救われないからです。

また、私に頭を下げていく小学生たちは救われていくでしょうが、いまだに私の顔を見ると嫌がらせをしてくる小学生など、やはり運転手同様、近いうちにいなくなるでしょう。

そういう現象は、運転手だけではなく、学生たちにも同じように現れているはずだからです。(だから学生連中もみな怒っていたのでしょう。ずいぶん前からです)

傲慢で心が汚い者たちは、もうこの時代と合わなくなり、いなくなっていくのです。(病気になっていくのです。それもひどいです)

しかし、私に頭を下げられるくらいの謙虚さと素直さを持ち合わせているのであれば、そのような者たちは救われて行きます。

だから私は、先ほど、私に頭を下げる小学生は救われると書いたのです。そのような心が自分を救うからです。

しかし、そのような心を持ち合わせていない者たちは、救われることはありません。必ずどこかで災いは現れるでしょう。

だから学生たちは、最低、そのくらいの(このブログを読めたことに素直に感謝して謙虚に頭を下げられるくらいの)心にならないといけないのです。

何度もいいますが、そういう心が自分自身を救うからです。

しかし、大人はそれではいけません。大人の人たちも、たしかに最近は頭を下げる人が増えてきましたが、それだけではダメでしょう。

大人の場合は、ちゃんと私に感謝しないと救われないからです。それには報恩の行為は必要であるからです。

もう何度も書いていますので、クドクド書きませんが、子供たちは私に謙虚な心で感謝できれば、それで救われていくのでしょうが、大人たちは謙虚な心で感謝するというのなら、それは報恩の行為が必要です。

大人の場合、そこまで出来て、はじめて感謝したと認められるからです。

では、大人たちは私に報恩の行為まで出来て、はじめて救われるということになります。

されてはどうですか?もうソロソロです。そういう人たちはみな私のブログを読み(または噂をきいて)多かれ少なかれ心を救われている人たちばかりであるからです。

心が救われたのなら、感謝しないといけません。

それをしないから(心が救われた人に対してです)これだけ悪いことが起きているのです。

それだけ自分たちは、その人から受けた恩は大きかったからです。だから、これだけ悪いことがたくさん起きているのです。

多くの人が、その受けている恩の大きさに気づいていないからです。

大きな恩を受けているにもかかわらず、その恩のお返しをいつまでもしようとしなければ、その恩のお返しをしなければいけないという、気づきの現象は、当然、激しくなります。

それがこの辺りには特によく起きているのでしょう。それだけ大きな恩を受けている人たちがたくさんいるからです。(まあ、それを認めない人たちばかりですが。〔苦笑〕)

そういう人が多ければ多いほど、起きる現象も多くなります。その気づきの現象が次々に起きているのが、この辺りでしょう。

だから、それをしない限り(私に対する感謝と報恩の行為)この辺りで起きている災いは止まらないと、私は何度も(何十度も)いっているのです。

それが事実であるからです。

神の教えを知るということは(しかもこれだけしっかりです)生きている間だけではなく、死んだ後まで救われ、その後、輪廻転生して行ったその先まで救われていくことになるのです。

ここで知った正法神理は、自分の心の中に永遠に残るからです。

自分の心の中に正法神理が残っているのなら、その正法神理は、自分の心がある程度のレベルに達するなら、いつでも取り出せるようになります。

そうであるなら、その人はもう未来永劫、救われていくということになります。

この教えはどういう問題に対しても正しい対処の仕方を教えてくれるものであるからです。どこにいようとすぐに神の力が現れてくる、そのような教えであるからです。

ではどこにいても、またどんな状況でも救われていくということになります。

だから、尊ばないといけないというのです。この教えを知るなら、その後、救われる道が永遠についてくるからです。

そういうことが事実であるから、私には奇跡が起きているのだし、私に逆らっている人たちには災いが起きているのです。

それでもまだ突っ張るつもりですか?

それでは逆に、永遠に救われることはないのです。

(この教えをきいていることの有難さ〔有難いとは、有ることが難しい、本当に稀であるという意味ですから〕を理解できない間は救われることはないのです。滅びる前に気づいてください。この教えの本当の有難さをです)

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11月 23 2018

ローマとエジプトと日本と。歴史は繰り返す

昨日は歩いていると引いている人が多かったですね。

これだけ車が減っていては、それはそうなんでしょうが、その反面、トラックの運転手連中などみな怒っているのです。(怒っている人がほとんどでした)

これもまたそれはそうなのでしょう。トラックがこれだけ減っていてはもういつ自分に何か起きるかしれないからです。

しかし、それなら怒っているのではなく、この教えを実践されたらどうですか?

この教えを実践するなら、神の光が現れてきて神から守られ、不幸が起きることもないからです。

それは歩いている人たちも同じなのです。この教えを実践するなら神から守られることになります。

しかし、多くの人が逆の態度を取っているから逆の目が出ているのです。

この教えを実践する以外、もう救われる道はないのです。いい加減、それを理解されてはどうでしょう。

それは歴史が証明していることであるからです。

キリストを十字架にかけ、弟子たちを迫害したローマはベスビオ火山の大噴火によって滅びました。

同じようにモーゼの教えをきこうとしなかったエジプトは、モーゼの大奇跡により多くの人々が滅びていったのです。

しかし、キリストやモーゼのいわれることをきいた人たちはみな幸せになっています。

だから、本当の神の教えはきかないといけないといっているのです。本当の神の教えをきくのであれば多くの奇跡も現れてくるからです。

しかし、過去のローマやエジプトと同じように、今の日本の人たちもどれだけ私が本当の神の教えを説いているといっても(そうして次々に奇跡が現れているにもかかわらず)それを認めようとしません。

本当の神の教えなどそっちのけで自分たちのことばかりしているのです。

では、そのような人たちがどうなるのかは歴史が証明しています。

そういう不遜な態度を取り続けた人たちの多くは滅び(天に引き上げられ)そうして最後に残った人たちは、その教えに従うのです。

本当の神の教えに逆らうことは何人(なにびと)たりとも出来ないからです。だから従わざるをえないのです。

本当の神の教えには、この世のすべての人が従う。(特別それは人間だけではありませんが。動物、植物、鉱物みなそうです)それがこの世界をつくられた神のルール(法則)であり、それが唯一の幸せの道であるからです。

従うべきところは従う、そうしないと必ず不幸になるのです。

その神の教えに従っていないのはもはや人間だけなのです。(植物、鉱物はもちろんですが〔動かず言葉も発せないため分からないだけです〕動物たちまでちゃんと従っています。私に喜んで寄ってくるのがその何よりの証拠です)

だから最近、少し天変地変が静かになったと思ったら、今度は車が(人が)減るのが増えだすなどという不幸なことが次から次に起きだすのです。

日本には本当の神の教えが出現しているにもかかわらず、多くの人々がいつまでたっても、その神の教えに従おうとしないからです。(日本に本当の神の教えが出現したという意義を、もっと日本の人たちは重く受け止めるべきなのです。あまりにそのことを軽く考えすぎているのです)

ローマやエジプトもそうでした。同じような人が多かったがため同じようなことが起きていたのです。

凄まじい天変地変が次々に起き、多くの人々が疫病や災害で命を落としたのです。まるで現在の日本と同じではないですか。

同じことが起きるのです。ローマの人々も、エジプトの人々も、同じようにキリストやモーゼのいわれることを(起される奇跡を)無視していたからです。

その教えに逆らい、奇跡をただのマジックだのなんだの、ケチをつけて認めなかったからです。

その結果が、多くの不幸となって現れたのです。

本当の神の教えと、それに伴って起きる奇跡を尊ばなかったからです。

それでは次々に天罰はくだります。その通りのことがローマやエジプトに起きたのです。

それと同じことが現在の日本に起きているのです。

残念ではありますが、ローマやエジプトにいたような人たちと、同じような人たちが現在の日本にもたくさんいるからです。(ローマやエジプトでキリストやモーゼをバカにした人たちが、輪廻転生して現在の日本に生まれて来ているのかもしれませんが…では、そのような人たちはまた同じ間違いを犯しているということになります)

しかし、過去の人たちと同じ間違いを繰り返すのなら、同じ不幸が起きてきます。

では、やらない方がよいのではないでしょうか。好んで不幸になることもないからです。

それと同じ間違いを繰り返していては進歩も成長もないからです。

本当の神の教えに従おうとしない人たちは必ず不幸になります。それは歴史が証明しているのです。

しかし、神の教えに従うなら幸福になります。これもまた歴史が証明しているのです。

それでもまだこの教えに従おうとはしないのですか?自分のことが優先なのでしょうか?

それほど不幸な行いもないのです。

本当の神の教えが出現したということは、何ものにもかえられないほどの喜び以外の何ものでもないからです。

これ以上の幸福はこの世に存在しないからです。

これ以上の神の恵みはありません。その価値をあまりに多くの人々が理解しないでいるのです。

その無理解が、多くの不幸を呼んでいるのです。過去も現在においてもです。

それだけ価値あるものを無視しているから、それほどの不幸が現れてくるのです。その起きる不幸の多さで、神の教えの価値を理解しないといけないのです。

その神の教えを大いに活用するなら、どれだけ多くの幸福がえられるか分からないからです。

これ以上、間違った歴史を繰り返してはならないのです。

「神の教えほど価値あるものはこの世に存在しない」ということを多くの人たちは理解しないといけないのです。

(それをいつまでも理解しないから〔認めないから〕これだけ多くの不幸が起きているのです)

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11月 22 2018

順 序

本当に道路がすいていますね。

昨日もそうでしたし、一昨日など松葉公園の辺りを歩いていましたが、道路はガラガラでトラックなどたまにしか走ってこないのです。(普通車に比べて二~三割どころではありませんでした)

いつも行くところと違うところを歩くと道路のすき方が増しているのがよく分かります。もう周りで歩いている人たちもドン引きでした。(なんせ、そこはトラックで一杯だった道路ですから)

本当に恐ろしいことが起きているのですが、この辺りの皆さん(釈尊とキリストが説かれた教えだけを純粋に説いている)この本当の神の教えを勉強しなくて大丈夫ですか?

このままでは、そのドン引きしている人たちまでいなくなってしまいそうであるからです。

この辺りの運転手連中はどうも次々に神隠しにあっているようだからです。(何でこれだけ車が減っていくのかよく分からないんですから、これはもう神隠し以外の何ものでもないでしょう)

神隠しにあっているのなら、それを防ぐには、本当の神の教えを勉強し行う以外ありません。早く心変わりしてくれることを願うばかりです。

そういえば前回抜粋した正法誌の中に、もう一つ面白いエピソードが書かれてありますので、それも抜粋しておきましょう。

その面白いエピソードとは、園頭先生とあの「雨ニモ負ケズ」の宮沢賢治氏との話です。

同じく正法誌の1986年、五月号より抜粋。

<私の青年時代の一つの目標は、宮沢賢治先生の「雨ニモ負ケズ」にある人間のようになることであった。

雨ニモ負ケズ

風ニモ負ケズ

雪ニモ

夏ノ暑サニモ負ケヌ

丈夫ナ身体ヲ持チ

欲ハナク

決シテ イカラズ

イツモシズカニ

笑ッテイル     以下略

私はこの詩をはじめて読んだ時、まるで俺のことをいっているみたいだなと思ったものである。そう思ったことがいつか宮沢先生の生地に行ってみたいと思うことになったのであるが、それには昭和十二年から二十年までの戦争を経験し、生長の家の講師になることによって達成されることになったわけである。昭和四十八年一月、高橋先生のことを知って、三月、当時のGLA関西本部に行った時、事務所の机の上に「雨ニモ負ケズ」の詩を書いた置物があり、幹部の自宅に行ったらそこにもあった。どうして関西本部の人たちはこの詩を愛しているのだろうかと思っていたら、それは高橋先生が「宮沢賢治という人は菩薩界の人ですよ」といって「雨ニモ負ケズ」の詩をすすめられたということであった。

その話をきいて、そうであれば自分が青年期、この詩に心を魅かれても当然だったのだなと思うことであった。

当時、生長の家の花巻の幹部の方が賢治先生の弟の清六さんと昵懇(じっこん)で連れて行ってくださったのであった。賢治先生の話をしているうちに、話はその日の新聞に載っていたことに移って行った。丁度その日の新聞に、菊池寛先生の未亡人と出版社との裁判問題が載っていた。菊池寛先生の本の再版について、出版社が未亡人にいった冊数よりもたくさん部数を印刷して、印税をごまかした、というものであった。その記事を見て清六さんが、これはきちんと書類で契約しないで、口先だけでやるからこういう問題が出てくるんですよ。私は一々念を押して契約するから、兄の出版物についてトラブルがあったことは一度もありませんといって、自分がそうだったのはなぜであるかを話された。

中学三年生の時「人生」ということに疑問を持って、街はずれにある禅寺に話をききに行った。そうしたら和尚さんが次のような話をされた。

「旅の僧があって、あるところでやっと、にぎりめしの布施にありついた。腹が減っていたので、ガブリと嚙みついたら、そのとたんにうんこをしたくなった。うんこをこらえながらにぎりめしを喰ってもうまくないし、さて、どっちから先にしようかなと思ったが、どうせどっちみちやらなければならないことだから、別々にやるよりも一緒にやってしまえと、便所にしゃがんで、一方では出しながらにぎりめしを喰った。ところがふとしたはずみに、そのにぎりめしがすとんと便壺に落ちてしまった。「しまった」と思ったが、そこは座禅をやっていただけのことはあって悟りが早かった。」

(やあ、どうせどっちみちあそこに行くんだから、こっちの方が早さばけでいいわい)

そういう話をして、その和尚さんいわく、

どうせどっちみちあそこに行くには間違いないが、しかし、自分の腹を通さずに、ストレートに便壺に行ってしまったんではわが身がもたんのである。

すべて物事には順序がある。

この頃の若い者は、やれ歌手になりたい、やれ野球選手になりたいなど、結果だけは一生懸命に思う。ごはん一つ炊くにしても順序があるのであって、順序を間違えたらごはんにならないのである。

良識を持った人、常識のある人とは、ものごとの順序をよくわきまえている人のことである。歌手や野球選手になるには、まず自分にその才能があるのか、そんなことも考えずに能力もないくせにただやたらに結果だけを求めたがる。

さて次は、では現在からどのようなことをしたらそうなれるのか、目標に達成するには今から何を、どういう順序でやらなければいけないのか、目標に達成するまでの途中の順序方法をよく考えなければいけない。その順序方法が間違うと目的は達成できないのである」と。

ですから私は兄の本を再版発行する時は、ちゃんと契約書をつくって、この本の再版が何冊、その印税がいくら、支払い方法はこうでと、一つ一つ確かめて契約するから一ぺんも出版社との間でトラブルを起したことはありませんという話であった。

思うことは具体的でなければならないという話の時に、私はよくこの話をするが、思うことが実現しないのは、その思っていることが実現の可能性のないものであるか、あったとしても具体的な実現の努力が足りなかったからである。

たとえ実現の可能性のあるものであっても、思ったからといってすぐそれが実現するものではない。なにごとも実現するには時間がかかる。簡単なものはすぐ出来るが、むずかしい大きな問題になればなるほど時間がかかる。

(中  略)

「こうありたい」「ああなりたい」という目標を思うことは一回でよろしい。朝から晩まで、来る日も来る日も「こうありたい」「ああなりたい」と思い続ける必要はない。思い続けなければならないのは、その目的、目標を実現するためには、どういうことを、どういう順序でしなければならないかということである。何ごとも、順序が一つ狂うとものごとは実現しないのである。

すべてのものごとが実現するには、それを実現させる順序方法がある。それを真剣に思わなければならない>

物事を行うには、順序が大切であるということを園頭先生は書かれているのですが、そのような何か行う時の順序もたしかに大切なことなのですが、いま現在の日本は神から大変な順序をいただいているのです。

その神からいただいている順序を無視して自分のことばかりしていて本当に大丈夫なんでしょうか?

日本の人々はです。

だから、これほどひどいことが起きているのです。多くの人が神からいただいている順序をまるっきり無視しているからです。

その神からいただいている順序を正しく書いているのは、ここに書いている本当の神の教えだけなのです。

だから、ここに書いていることに従う人には奇跡が起き、逆らう人には災いが起きているのです。

この教えに逆らう人があまりに多くて凄まじいことが日本に起きています。

神からいただいている順序は絶対に無視してはならないのです。

追伸…段々、このパソコン、ブログを書いている時に文章が(勝手に)とんでしまうことが増えてきました。

壊れかけているのでしょう。

もう一つのパソコンも壊れているし、これでこのパソコンまで壊れたら、法を伝えることが出来なくなります。

これだけ激しい現象がこの辺りで現れてきたのも道理でしょう。法が説けなくなったら、何が日本に起きてくるかしれないからです。(そういえば、このように車が減りだしたのも、私がしばらくブログを書かなかった時からでしたね。法を説かなくなれば〔全国的に〕このようなことが起きるということを暗示しているのかもしれません。〔汗〕)

いい加減、このブログを読んでいる人たちは(本当の神の教えを伝えられている人たちは)布施くらいしていただけないでしょうか。

布施が入らないとパソコンも直せずブログも書けなくなるからです。

ブログが書けなくなるなら、日本に起きる現象は、きっとこの程度ではすまなくなるからです。(恐)

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11月 20 2018

本当の愛

前回、間違った信仰のことを書いたのですが、お経を上げるだの、お参りするだの、仏教系の信仰ばかりでなく、ではキリスト教はどうなのでしょう。

キリストの教えであるキリスト教も、今いわれているキリスト教と、この正法神理から見たキリストの教えとではどう違うのか?

その違いを書いておきましょう。

正法誌の1986年、五月号より抜粋します。

<高橋信次先生のことば

愛とは何かというと、大抵観念的、抽象的に、或いは幻想的に考えがちだ。

近頃は、肉体的、性的行動が愛だと思っている者も相当にいる。愛とは何かというと、助け合うことであり、他を生かすことである。

この地上界は自分独りで生きることは出来ない。常にいろいろな複数の関係の中で相互に働きかけ合いながら他を生かすことによって成り立っている。

地上界(現れの世界)は意識界(あの世)とは異なり、相互作用によって生かされていることは否定しようとしても否定することは出来ない。

他を生かすとは自分の身を他に供養することである。私たちは動物、植物、鉱物を口に入れることによって生きている。つまり、それらの身の供養がなければ、私たちは一日として生きることが出来ない。魚や野菜、飲料水は、これみなことごとく生命を持ち、私たちにその身を投げ出している。私たち人間関係についても、様々な職業、仕事を通して他を生かしている。

この地上に混乱が絶えないのは、これに欲望がからみ、欲に心が奪われるからである。他を生かす、助け合う愛の行為に心が定まれば、明日にでもこの地上は仏国土となろう。

愛というとイエスがすぐ浮かぶ。イエスが十字架にかかったのは、愛の行為を示すためであった。他を生かすための死は愛の極限だからである。

イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。愛は慈悲という神の心を行為によって現すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった。

死は間近に迫ったが、それをさけようとすればいくらでもさけられた。だが、イエスはあえてそれをしなかった。愛の証はその身を供養(死)することによって果たされるからだった。

十字架の人となったときイエスは、罪人を含めて地上の人たちに、神の恵みと赦しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信じる者は救われるとなってしまった。

イエスを信ずるとは、愛を信ずることである。愛を信ずれば、愛の行為がなければ観念の遊戯になってしまう。愛は行為だからである。胸にいくら十字を切ったところで救いにはならない。イエスの行為をみればわかるはずである。また、信は念を生み出し、念は行為につながってくる。

それゆえ、愛を信ずるならば、行為が生まれてくる。行為のない信などというものはないのである。

解  説

愛とは全面帰投である。相手を生かすためには自分のすべてを相手に投げ入れて、相手と一つになり、相手の喜びを自分の喜びとして自分がなくなることである。

愛とは自他一体の感情ともいわれる。自分と他との区別がなくなり、自分が相手であり、相手が自分であり、自分と他とが一つの思いになることである。

(中  略)

キリスト教信者はキリストの肉体の復活を待望しているが、そのことよりも大事なことはキリストが説かれた本当の「愛」の意義の復活である。

「イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。

愛は慈悲という神の心を行為によって現すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった」そのためキリストは逃れようとすればできられたのを磔(はりつけ)にかかられたのである。そのことによって「愛の真義」を分かってもらいたいという最後の願いであった。

キリストは「わが軛(くびき)は汝らを安らかならしめん」といわれた。わが教えを信ずれば心が安らかになるというのである。人の心を安らかにするのは、憎しみや怨みではなくて「愛」のみである。

愛は全面帰投であり自他一体であるから、愛とは相手と一つ心になって相手を生かし相手のためになることである。愛という言葉を使う時は自分がなくなって自分も相手にならなければいけないのである。自己愛、利己愛、自我愛が、愛という言葉を使っていても失敗に終わり不幸な結果を生むのは、自分のために人を奉仕させようとする愛とはまったく正反対の心があるからである。

「十字架の人となったときイエスは、罪人を含めて地上の人たちに、神の恵みと赦しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信ずる者は救われるとなってしまった」と書かれているが、そのように喧伝したのはパウロである>

以上、正法神理から見たキリストの愛を書いたのですが、ずいぶん違うのではないでしょうか。

キリスト教でいっている愛と法(正法神理)でいう愛とではです。

今のキリスト教はそこまで深く愛(全面帰投)ということをいっているのでしょうか?

キリスト教の信者の人たちの中には、そういっているという人もいるかもしれませんが、その人がいう全面帰投の愛とは、神に対する愛であり、それはすなわち自己愛にすぎないのです。

「神(キリスト)よ、我を救いたまえ」という自分が救われたいがためにキリストに全面帰投しているだけであり、それは正法誌の中にも書かれてありますが(自己愛、利己愛、自我愛は失敗に終わるとです)それではダメなのです。

自分ではなく誰に対しても、そのような愛を持たなくてはいけないのであり、だから、キリストは、自分が十字架にかけられるということを知っていたにもかかわらず(天上界から知らされていたからです。だから、キリストは逃げようと思えばいくらでも逃げることが出来たのですが)あえて逃げることはせず十字架にかけられたのです。

神の奇跡を現し、多くの人々を癒されたキリストが十字架にかけられるのなら、その衝撃は世界に伝播するからです。(インターネットがなかったこのような時代といえどもです)

そうなれば、キリストが説かれた教えも同じように伝播されていきます。

自分の教えが世界に拡がるのなら、多くの人々が救われるとキリストは知っていられたため、あえて自分の身を捨てられたのです。

自分の教えを知って救われていく人々のため、自分の身を供養されたのです。

そのキリストが思われた通り、今日ではキリストの教えは世界中に拡がり、どれだけ多くの人がキリストの教えにより救われたかしれません。

これこそ究極の愛であり(世界中の人々のため自分の身を供養する〔神に捧げる〕)このようなキリストの究極の愛(愛の真義)を、キリスト教の人たちは学ばなければいけないのです。

それにもかかわらず、今のキリスト教の人々は、キリストが十字架にかけられることにより、全人類の罪を背負った。だから、キリストを信じる者は救われる、などというパウロの言葉をそのまま信じ、本当のキリストの愛に気づかずにいるのです。

キリストが十字架にかけられることよって全人類の罪を背負ったのなら、それ以降の人々は、苦しむ人が出てこなくならなければおかしいはずなのに、キリストが十字架にかけられた以降も苦しむ人はたくさん出てきています。

そうして、そのキリストを信じているはずのキリスト教の信者の中にも、苦しむ人が出ているのに、キリストが全人類の罪を背負っただの、キリストを信じれば救われるだの、どう考えても、そんな教えはおかしいと、間違っていると、分かりそうなものですが、何でそれがいつまでたっても分からないのでしょう。

キリスト教の人々はです。

このようなバカげたことは、すべてパウロがいったことであり、キリストがいわれたことではないのです。

そこを間違ってはいけないのです。

本当にキリストがいわれた言葉と、パウロがいった間違った教えがごっちゃになっているのが現在のキリスト教であり、だから奇跡が起きないのです。

正しい教えと間違った教えが混ざっているからです。(それは今の仏教も同じですが。釈尊が説かれた正しい教えと、その後の弟子たちが説いた間違った教えがごっちゃになっています)

だから、正しい教えを学ばないといけないのです。(正しい教えとは、本当に釈尊がいわれたこと、キリストがいわれたことだけを実践している教えということです)正しい教えを学ぶなら、確実に奇跡は起きてくるからです。(それが私が説いている教えです)

キリストの教えを学ぶなら、キリストの真の愛を知らないといけないのです。

愛の真義を知らないといけないのです。それこそ、キリストが自分の身を供養されてまで人々に伝えたかったことであるからです。

これまでの宗教と、私が説く正法神理はこれだけ違います。(同じ愛を説くだけでもです)

「この時代、もうこの教えを学ばないと救われない」といっている私のいうことが少しはお分かりいただけるでしょうか。

(この正法の世は、それだけ愛深く、慈悲深くならないと救われないということです)

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11月 18 2018

末法の信仰

次々に起きているようですね。どこかの会社などです。

昨日でも朝から騒いでいましたからね。急に騒ぎだすので何か起きたとすぐに分かります。

だからいってやるのです。「詫びをいれて、感謝して布施すれば(その現象は)すぐに止まる」とです。

しかし、一切態度を変えようとしません。(相変わらずでかい音を立てて嫌がらせをし続けています)それでは、恐ろしい現象はずっと出続けるでしょう。

あの会社の人間がいなくなるまでです。(ずいぶんひどいことをしていますからね。この連中はです。〔私だけではなく回り中に迷惑をかけてです〕全然その自覚はないようですが)

別にどこかの会社だけではないでしょう。ブシュブシュやっていく運転手連中も同じなのです。

私に詫びを入れ、感謝して布施しなければ、恐ろしい現象は止まらないのです。

皆、私のブログを見ているからです。(本当の神の教えを知らされているからです)それなのに嫌がらせしかしないからです。

昨日も(土曜日とはいえ)走っているトラックは少なかったですね。(こちらは静かでよいのですが)夕方などほとんど見なかったくらいです。

これほどの現象が現れてきても、それでもまだ神を認めて、本当の神の教えを勉強しようとはしないのでしょうか。

このままではまだまだ恐ろしい現象は現れます。特にこの辺りなどです。

この辺りの人たちは、皆、神の教えを知らされているにもかかわらず、少しも感謝せず、嫌がらせを平気でして心が汚いまま、反省のない生活をし続けているからです。(まあ、元々はその心が汚いのがすべての不幸の原因なのですが)

これから正法の世がドンドン深まって行きます。それなのに、そんな心と行いのままでは必ず天罰はくだるでしょう。

そういう時代になっているからです。

もう本当の神の教えを信じ行われてはどうでしょう。

無神論はもちろんですが、これまでのような信仰をどれだけしたところで、もうそのような信仰では起きている恐ろしい現象は止められないからです。

これまでの信仰は間違っていたからです。

これまでの信仰では少しも心をきれいにしないのです。では、止められないですね。この起きている現象はです。いま起きていることは、その心に原因があるからです。

どこかにお参りに行くだけで、あるいは寺などでお経を上げたり座禅をしたりしているだけで、それで心がきれいになると思いますか?

多くの人はそれが正しい信仰だと思い、そのようなことを続けて、それで心が軽くなった、気分がよくなったなどと思っているのでしょうが、それはただの思い込みなのであり、実はまったくそうなってはいないのです。

実際は、そういうことをしても心が軽くもならなければ、気分もよくはならないということです。そのような行いに何の意味もないからです。(だからそれは自己満足にすぎないということです。意味のないことをしていて、心が軽くなるわけも、気分がよくなるわけもないからです)

そのようなことをしている人たちも(お寺や神社など行くとよくお参りに来ている人が多いですから)こちらでは次々に病気になっています。

では、これ以上の証拠はないのではないですか。そういうことをしていても次々に病気をするのなら、そんなことをしていても何の意味もないとです。

それが正しい信仰であるのなら、こういう時であるなら、何がしかのご利益が出てこないといけないからです。

しかし、こんな非常事態にもかかわらず何のご利益も現れないのです。これ以上、このような信仰が間違っているという証拠はありません。

これが現実なのです。こちらではもうそのような間違った信仰の馬脚まであらわれてきているのです。

そういうことをしていても、実際は全然心が軽くなってはいないからです。それが正しい信仰で、そういうことをすれば(お参りやお経など上げれば)本当に気分よく心が軽くなったのであれば、その人にそのような災いが現れることはないからです。

しかし、こちらではそういう人たちにも災いが現れている。ということは、こちらで起きている現象は、そのような信仰がまるで意味がなかったということも、同時に(罰が当たるということだけではなくです)教えているのです。

お経やお参りをしているだけでは心はきれいにならないのです。禅定をしてこれまでの自分の行いをしっかり反省しないといけないのです。

そうしない限り、自分の心はきれいにならないからです。

だから座禅もいけないということです。正しい禅定ではないからです。

無念無想などといって、少しでも動けばひっぱたかれるのであれば、そちらばかりに気がいって無念夢想どころではありません。

それに無念無想では(何も考えようとしないのでは)反省など出来ないではないですか。

心静かに禅定しながら、これまでの自分の悪かったところを反省する、それをしないと心はきれいにならないのです。(だから私は反省しないといけないとくどいほどいっているのです)

今の信仰はそのようなことを一切していません。(反省禅定などしていませんよね。どこもです)だから、そのような信仰をしている人たちにもこちらではボンボン罰が当たっているのです。

正しい信仰をきいているのに(私から)それを無視して、間違った信仰をし続けている人たちばかりであるからです。

そのような末法の信仰(間違った信仰)をどれだけしていても、通用しない、逆にそんな間違ったことをすればするほど罰が当たる、もうそういう時代になっているのです。

だから、このような恐ろしい現象が(こちらだけでなく)日本中で起きているのです。

多くの人たちが心と行いだけではなく、間違った信仰までし続けているからです。

そのような諸々のこと(大間違い)を考えるならです。

神の怒りは大変なものであると理解でき、この大変な事態に気づいて、早く心と行いを切り替えないといけないと分かるはずです。

それともまだ分かりませんか?自分たちの大間違いがです。

無神論も間違いなら、今までして来た信仰も間違いであったということです。

何もかも間違えているのですから、これだけの罰はくだるのです。

早く心を変えないといけないのです。この正法の世に合わせてです。それがどれだけ難しいことであってもです。

時代はドンドン進んで行くからです。

それだけの(皆さんが大間違いしているだけの)神の業がすでに日本には現れているからです。それを多くの人たちはただ無視しているだけなのです。(または、他のもののせいにしてごまかしているだけ)

この正法の世に合わせて心を切り替えることが出来るのなら、私たちのように次々に奇跡が現れるようにもなります。

私はいっているだけではないのです。自分たちでちゃんとそのようなこと(奇跡)を現しているのです。

では、私のいっていることは正しいということになりますが、それにもかかわらず、くだらない反発ばかりして、自分たちの行いを頑として変えようとしない、そんな人たちばかりです。

だから、いつまでたっても不幸が続くのです。

しかし、そんな間違った態度を取り続けていては救われる道はありません。

凄まじい現象がすでに日本中に現れています。

この教えに帰依されませんか?

もう心と行いだけではなく、これまでの信仰まで、しっかりと変えていかなくてはいけない、そのような時がすでに来ているからです。

追伸…唯物無神論の人たちだけではなく、間違った信仰をし続けている人たちまで変えないといけない。

もう本当に大変です。

しかし、そこまで変えないと、この恐ろしい状況は変わってこないのです。

今のまま考え方を変えようとしない人たちには、まだまだこれから、恐ろしい現象は現れてきます。(もう認めてはどうでしょう。その通りのことが起きているのですから)

いつまでも(自分は関係ないと)無関心を続けている場合ではないのです。いつまでも無関心を続けている人が多ければ、この国はもう滅ぶしかないからです。

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