12月 22 2012
本物か偽者か
せっかくオープントーナメントを呼びかけているのですが、オジちゃんは逃げようとばかりしますし、後は誰も名乗りを上げてくれません。(やはり企画倒れに終わりそうです)
預言者エリヤは、偽預言者(もちろんこの人たちは、皆本物と言い張っている人たちばかりでした)四百五十人と対決するのですが、その対決の方法が、天から火を降らせることができるか否か、というものでした。
偽預言者の誰が祈っても、天からは雨の一粒も降ってきませんでしたが、エリヤが祈ると、たちまち天から火が降ってきて辺りを燃やし尽くしたのです。そうして、その四百五十人の偽預言者は皆殺されます。
私は何も、天から火を降らせろとか、できなかったら殺す、といっているわけではないのです。
ただ、奇跡が起きているのならそれを大勢の人の前にお見せください、と言っているだけなのです。
なんと簡単なことでしょうか。(普段行っていることを、信者の人以外に見せるだけなのですから)
しかし、こんな簡単なことさえ誰もできないというのであれば、皆偽者といわれても仕方がないのではないでしょうか。
信仰とはそんなものではない、日々穏やかに平和に暮らすのが信仰だ、といわれる人がいるかもしれませんが、逆ですね、信仰とはそんなもの(それだけのもの)ではないのです。
そんなものが信仰であるならば、なぜ、聖書にあのような様々な物語が出てくるのでしょうか。それは仏典を見ても同じです。その時々に起きる事柄に対し、釈尊はそのつど様々な説法をされ、そういう場合はどのような心でいればいいのか、どのような行いをすればいいのかを教えられています。
信仰とは日々の生活の中で、神を思い、どれだけその神の心に近づくことができるのか、そのように神の子として、どれだけ進歩向上していけるのかの方法を教えているのです。
ただ、普通の生活をしているだけのようなことが信仰であるはずがなく、そんな心が進歩向上しないような生活など、どれだけ続けていても意味がないのです。
自分の心と行いをまったく変えようとしない、そんな人は多いと思います。
だからこそ、法を知っている者たちは、そのような人たちに刺激を与え、神の方に目を向けさせるため、法を説くのはもちろんのこと、その説いている法が、本当の神の教えかどうかを証明する必要があるのです。
無理やりにでも、そのように神の方を向かない人を、神の方に向けさせるため、奇跡を起こす必要があるのです。
私は何も自分にそのようなことが起きるからと、人に見せびらかすような、そんな心でこのようなことをやろうとしているのではありません。一人でも多くの本当の神を知らない人のため、そのような人に本物の神の存在を知らせるため、やむにやまれずやっているのです。
誰も名乗りをあげようとしないのは、ただ自分が恥をかきたくないという、保身しか考えていないからです。私はそんな心をとっくに捨てています。だから、これから祈ります、と堂々とここに書き、そうしてそれを行ってきたのです。そのような心だから天も私の祈りに応えてくださったのです。
ただ恥をかきたくない、そんな小さな心の人が、私に意見するなど洒落にもなりません。
私に何かいいたいのであれば、行いを先にしてください。
本物と偽者の差は、そのような“覚悟”があるかないか、なのです。
(それは信仰だけでなく、何をするにもいえることですが)



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