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1月 24 2011

最近気づいたこと

二~三日前大阪の橋下府知事が大村、河村両氏の応援で名古屋に来ていました。私はその応援演説(さすが今人気の知事です演説もうまかったです)を聞きに行ったのですが、その二日ほど前にも大村、河村両氏の街頭演説を名古屋駅で聞いていました。

大村、河村両氏など私がブログに書いたことを、ところどころ話しているようにも感じましたが、法がこのような方々にも伝わっているのでしょうか?(何か大村氏など分かりやすいのですが〔笑〕)少し前にゆずというバンド(申し訳ありませんがこの人たちを私はよく知りません、歌手なのかバンドなのかよく分かりませんが、とにかく二人で歌っている人たちです)が、新曲を出したということでテレビで紹介されていました。その新曲が「平和」(字はこんな字ではなく英語が混ざっていたと思いますが、最近の歌の題名はややこしいですね)という題で、その歌詞の中に「神は心の中にいる」というような歌詞が混ざっていました。

政治にせよ歌謡曲にせよ、法に著作権などありませんので、大いに使っていただいて、多くの人々に神の心を伝えていただきたいと思っているのですが、法が何らかの形で伝わっているのでしょうか?何でこんなことを知っているのでしょう?

この前は中日新聞にも法のようなことが書いてありましたが、私はスポーツ選手の一部には法が伝わったと思っていましたが、よくよく考えてみればそのような人たちは、各方面に顔が広い方たちばかりです、いろいろな方面に法が拡がっていても不思議ではありません。自分が知らないところで、思っている以上に法が拡がっているのかもしれません。

このようなことを考えますと、少々今の状況が苦しいからと、もう法を伝えるのはやめたとも言えません(そう思った途端ろくなこと起こりませんし)。それに大村氏や河村氏、橋下知事など大変な苦労をされ今もいろいろな苦難があります。それにまだこれからたくさんの難問も待ち受けてもいるでしょう。

私以上に苦労をされている方が目の前にいるのに、せっかく拡がりつつある法をここで私が投げ出してよいはずがありません。

だいたい私は少し苦しいと「私一人では何もできない」とか「これ以上法などといってブログに書いて、高橋先生や園頭先生の教えを曲げでもしたら大変なことになるからもうやめよう」とか言い訳して、すぐ逃げようとします。ここら辺が私の悪いところですが、古来正しい教えが苦労もなく世に拡がった例など一つもなく、苦労するのは当たり前のことなのです。

このような自分のダメなところを天は知っています、そのようなところを直し「どれだけ困難があろうと法を伝えることを絶対にやめてはいけない」ということを、肝に銘じさせるため、天はいろいろな形で協力して下さっているのでしょう。でなければ、こんなおかしな現象が起きるはずがありません。一方では法が大きく拡がりつつあるのに、その法を伝えているもう一方には、まったく人が寄り付かないなどということが普通ありえるでしょうか、その人の言っていることが拡がっているのなら、その人の下にもたくさん人が集まってくるはずです。そうなっていないのは、やはり何かの作用があってそのようにさせられている、と考えたほうがよいでしょう。相変わらずきついことをしてくれます……ではなく天にはいつも感謝しています、でした(笑)。

しかし、今生おかしなことが起きていると言うことは確かです。普通というなら、普通はまず一般の人々に法が拡がって、多くの人がそれを知ることによってはじめて上の人(多くの人々に影響を与える人たち)に伝わっていく、というのが普通と言えば普通のはずなのですが、今生は逆の現象が起きています。

一般の人は私のことや法のことなど知らないのに、多くの人たちに影響を与える人たちが私のことや法のことを先に知ってしまいました。このような現象もまた珍しいのではないでしょうか、下に大きく拡がって、それから上に拡がっていくというのが普通ですが、上に大きく拡がってそれから下に拡がるというのも不思議な話です。(というほど法が拡がっているということでもありませんが〔笑〕)

古来このような法の伝わり方をしたことがあったのでしょうか?本当に今生は不思議なことがいろいろ起きています。よく考えてみればそれだけ法の流布が遅れている証拠でしょう、それで天が普通では考えられないような法の拡げかたをしているのです。

多くの人に影響を与える人が、法を先に知った方がより早く法が拡がります。いかに天が法の拡がりを急いでいるか分かります。

しかし、そのような天の動きとともにスポーツ、政治、芸能、報道など各分野から、それぞれ法の分かる人たちが出始めています。それは自分の本当の使命に気づき始めた人たちでもあります。

これから大きく法が世の中に拡がっていく兆しが出てきました。このような拡がり方は天の配剤以外の何物でもないでしょう。

このような状況をみますと、橋下知事も言っていましたが「今やらないでいつやるのか」という気持ちを私も持ちました。

だからこれからも頑張ろうということを最近気づきました。

これが私の最近気づいたことです(笑)。

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1月 21 2011

出生の秘密②

生まれてくる前の世界が皆目分からず、死後の世界を多くの人が信じないのは、この世に生まれ一度息をすった瞬間、自分の過去のことをすべて忘れるように仕組まれているからです。

しかし、よくよく考えてみれば、生まれる前のことや死んだ後のことがまったく分からない、ということの方が逆に不自然で、それこそその先に何かあるのではないか、とも思えるのですが、そのように考えるのは私だけでしょうか(笑)。

しかし、いくら検知する機械がないとはいえ、この世がこの世だけと考えることの方がよほど無理があると思います。死んだ人を観たと言う人や幽霊を観たと言う人はたくさんおりますし(私もその中の一人なのですが)、霊が写真に写ったという心霊写真もあります。なかにはウソをついている人やインチキな写真をつくった人もいるのでしょうが、そのようなことを言っている人を、すべてうそつきというのも狭量な意見なのではないでしょうか(ということは私もウソつきということになります〔笑〕)。

あるいは現実に起きることを先に夢で観る正夢というものもあります。この世がこの世だけなら何でこんな現象が起きるのでしょう?この世が物質の世界だけなら何をするにせよ、こうすれば必ずこうなるという結果が決まっているはずですが、同じことをしているのに結果がそうなる時もあればそうならないときもある、というのはどういうことなのでしょう?それは運がよかったとか悪かったとか、皆平気で言っていますが、ではその運とはどこから来ているのでしょうか。

この世が物質の世界だけなら、運ということを信じるほうがおかしいですし、正夢のように先に起きることを夢に観るなどという現象が、起きるはずがないのです。

なぜ、この世(物質界)的に言えば考えられないことが、こうもいろいろ起きているのでしょうか?

別にそれほど難しい話ではないでしょう。この世はこの物質界だけではないからです。別な世界もあるからその作用で、物質の世界だけでは説明できないことが起きているのです。

そう考えるほうがよほど普通だと思いますが、多くの人はそのように考えないのでしょうか?やはり私の考えは普通ではないのでしょうか(笑)。

死ぬ間際になると誰もそんな人が見えないのに、あそこに立っている人は誰だとか、あるいは死ぬ寸前に大きな目を開けて驚いたように、ぐるりと周りを見渡して死んでいく人がありますが、それは死が近くなるとあの世(意識界)と心が同通するようになるため、あの世の天使が観えるようになります。自分の守護、指導霊が近くに来てその人を見守っているのですが、今までまったく観えなかったものが急に観えるようになるため多くの人は驚きます。

しかし、そのような霊たちは自分がこの世に生まれ死ぬまで、自分を守り導いてくださった霊たちばかりです。感謝こそすれ驚くのは失礼な話でしょう。(マァそのことがまったく分からないから仕方がないと言えば仕方がないのですが)

少し考えを広げてみれば、私の話していることのほうがよほどまともなのではないでしょうか。

いずれにしても私たちは、あの世から生まれ死ねばまたあの世に帰ることになります。この世の物質(金や物や地位や名誉)にとらわれていては、本当に正しいものは分かりません。

本当に正しいもの、真に価値のあるものとはなんなのか、ということを私たちは自身で知らなければならないのです。

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1月 19 2011

出生の秘密①

前にも書きましたが、医学的には精子と卵子が結合すると子供が生まれる、と言われております。しかし、精子と卵子が結合しただけでは子供にはなっていきません。

ただ精子と卵子が結合しただけでは、卵子に与えられている細胞分裂の働きによって、一個の卵子が二個になり四個になり八個になりして、分裂して増殖していきますが、それで赤ん坊の肉体がつくられることはありません。細胞分裂だけして肉体にならないものを“胞状奇胎”(ほうじょうきたい)といい、こうなってしまうと母体が危険なので、手術をしてそれを取り出さなければならなくなります。

現在の医学では生命がどのようにして起こり、受精卵がどうしたら多細胞の生物体(赤ん坊)になっていくのかが、まったく分かっていないのです。(ここら辺が今の医学の限界なのですが)

精子と卵子が結合しただけでは肉体にならないものが、どうしたら赤ん坊の肉体になっていくのか?それはその夫婦の子となる縁をもった霊が、結合した精子と卵子の細胞分裂をコントロールしていくことにより、だんだんと赤ん坊の肉体となってつくられていきます。

つまり生命とは霊のことであり、その霊が支配しないと赤ん坊の肉体にはならないのです。

では、その霊とはどこからきたのでしょう?当然それは私がいつも言っているあの世(意識界)からです。では何でそのことを私たちは覚えていないのでしょうか?

それが今生の修行だからです。

その夫婦の子となる縁をもった霊が、母の胎内で結合した精子と卵子をコントロールし、だんだんと肉体はつくられていきます。(この時点ではまだその子となる霊は、すべて〔自分の過去世であるこの世の記憶とあの世の記憶〕のことを知っています)そうして十月十日後いよいよこの世に生まれてくるわけですが、赤ん坊の肉体がつくられ、この世に生まれてくる寸前に、霊はその赤ん坊の肉体を完全に支配します。

そしてこの世に生まれて息を一度吸った瞬間すべてを忘れます。忘れると言っても、それは自分の心の中に自分の過去世の全記録が潜在されるのです。そうして白紙の状態から自分の心の判断だけで、この世を渡っていくのです。

しかし、心に潜在するといっても、それが完全に潜在されたままであるかと言えばそうではなく、成長するにつれ少しずつその潜在意識が表面意識に出てきます。それが自分の人格となって性格として現れるのです。(それでもこの世では潜在意識の十パーセントほどしか出てきません、それであの世のこととか自分の過去世のことが分からないのです)同じ環境で育っても、ある人は無神経で奔放な性格になる人もいれば、神経質な性格になる人もいます。それは過去世の経験の違いでそのように性格が分かれるのです。

ところが多くの人がこの世(物質の世界)に生まれますと、あの世(意識界)のことを一度は忘れてしまいますので、物質にとらわれそれに振り回されて、自分が生まれる前に約束してきた使命(自分がこの世でやるべきこと)が分からず、それを果たさずあの世に帰ってしまう人が多く、医者になって多くの人を救います、と言ってこの世に出てきた人が按摩で終わって帰るとか、政治家になって世の中をよくしていきます、と言ってこの世に出てきた人が、政治家にはならず普通のサラリーマンで終わるとか、また逆にやるべきことが他にあるのに、やるべきでないことを一生懸命やっていて結局芽が出ず終わるとか、もちろんそれがこの世の修行であり、自分のやることに自分で気づいて使命を果たして帰る人もいますが、そのような人は稀なのです。

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1月 17 2011

天に聴け

名古屋は数年ぶりの大雪になりました。しかも昨日は最高気温も0.5度で二十七年ぶりの低さだったとか、まあ名古屋も河村市長が出てきて議会が大騒ぎしていますので、こんな天気も仕方がないかとも思いましたが、それにしても昨日は一日雪が降り続いていましたし、今日も今だに雪が降っています。なんぼなんでも少しおかしいですねこの天気は……マァ心当たりがないこともありませんが……。

というのも先にも書きましたが、今生はあまりに自分の使命に気づかない人、果たさない人が多く仕事も出てきそうもないので、はっきり言いまして、これ以上このGTS心の研究所をやっていても仕方ないのではないかと思い、もうやめようかとも思っていたからです。

そう思っていた矢先にこの天気です。天は一体何を考えているのでしょうか?私一人で今の状況では、どちらにしても長く続けられるわけではないのに、やめてはいけないのでしょうか……マァ今週一杯よく考えてみます。

それはともかく最近は知事選が近いこともあり、新聞に連日知事候補の記事が載っています。

一週間ほど前でしたか、熱田神宮の裏にある図書館に行っていて、その帰り道熱田神宮の方からマイクの声が聞こえてきました。

誰か街頭演説をしているのかな、と思い声のする方に歩いていくと、知事選に立候補している大村秀章氏の車があり、その大村氏の応援で河村市長が話しているところでした。大村氏は、正月にも熱田神宮で初詣にきた人たちに挨拶をしていて、その何日か後にも、熱田神宮で街頭演説をしていたと新聞に書いてありました。

「この人よく熱田神宮にきてんな」と思い、その日は一月十日ころでしたか「もう初詣の人も少ないのに何でこんなとこで演説してんだろ、もっと人の多い名古屋駅や栄でも行ってやればいいのに」とも思って、少し河村市長の話を聞いていました。

熱田神宮は三種の神器の一つの剣が祀られています。大村氏はその剣にあやかって、バッタバッタと悪人を切り倒し正しい政治を貫く、みたいな感じで熱田神宮に来て街頭演説をしているのでしょうか(笑)。

マァどちらにしても私は河村ー大村ラインでいこうと思っていますが…。

最近はよく政治家の皆さんから“民主主義”という言葉を耳にします。

名古屋でも河村市長は「私が言うのが本当の民主主義だ」と言われるし、市議会議員の人たちは「私たちの方こそ本当の民主主義だ」と言われるし、一体どちらが本当の民主主義なのかよく分かりません。

民主主義、民主主義といわれますが、本当の民主主義とは何なんでしょう?民衆の意見をよく聞いてそれを政治に反映するということでしょうか?それとも民衆におもねるということでしょうか?

民衆の意見を聞くと言われても、民衆の中で大所高所から論ずる人は少ないでしょうし、ほとんどの人は自分の都合のいいことしか言わないので、その人たちの意見をいちいち聞いていても、なかなか政策もまとまらないのではないでしょうか。もちろん民衆におもねっていていい政治ができるわけありません。

だからと言って民衆の意見をまったく無視しても、よい世の中にはなりません。このように考えると政治というのも難しいものですね、あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たずで。

別に茶化していっているわけではありません。政治家というのは大所高所から物事を判断しなければならず(そうしないと多くの人が不幸になります)、大変だと言っているのです。

では、このような時どうしたら一番いいのか?ということになりますが、それはもちろん先人の智慧に頼ればいいのです。(先人の誰を選ぶかは大いに問題ですが)

私はもちろん西郷さんをお勧めします。

西郷さんは「敬天愛人」や「人をお相手とせず天を相手とせよ」と言われています。

つまり西郷さんは「天を相手に政治を行え」と言われているのです。(これは法なのですが、何で西郷さんが法を語っているのかと言うことは、また機会があれば書きます)

西郷さんは政治を行う時、常に天と向き合って、天に問いながら政治をされたのです。だから西郷さんのされることは正しかったし、またあれほど民衆からの支持を得られたのです。(西郷さんは亡くなられた後、星になったと多くの人々に言われました。歴史上亡くなられた後、星になったと言われた人は西郷さんが一人です。どれだけ多くの人に西郷さんが慕われていたのか、このような事実を見てもそれが分かります)

自分が出している政策は正しいのかどうか、常に天に問いながら政治を行うならば、天は心の中より直感と言う形で教えてくれます。その直感を信じ政策を行っていけば、あちらの人にもよいが、こちらの人にもよいという政治ができるのです。(これこそ本当の民主主義です)

そんな都合のいい話があるか、と多くの人は思うかもしれませんが、そのように言う人は法を知らないのです。頭であれこれ考え、あれをしようこれをしようとするから、あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たず、という政治になるのです。心で考え直感として与えられたものは、天が導いてくれているので、その導きに素直に従いそれを行えば、神の心がこの世に現れる、そのような政治ができるのです。

神の心がこの世に現れた政治なら誰も文句は言いません(皆神につくられた神の子であるのですから)。

現実にそのような政治をされた西郷さんは多くの人々に慕われ、信頼もされました。その西郷さんを裏切り、悪者に仕立て上げたのは岩倉具視や大久保利通です。

岩倉や大久保が西郷さんを追い出し、今のような私利私欲をむさぼり、国のことなど考えない欲に凝り固まった政治をつくったのです。(だから現在のほとんどの政治家が、自分が政治家を辞めたくないという保身ばかり考え、自分の票取りのためだけの地元優先の政策ばかり言うため、大所高所に立ったよい政策がなかなか出てこないのです)

西郷さんは違いました。今のような政治を目指されたのではありません。徳の政治を目指されたのです。しかし、西郷さんの政治を理解する政治家は(現在もそうですが)当時ほとんどいませんでした。それを西郷さんは分かっていましたので、自分の思っている政治をするのは、これ以上は無理だと思われ下野されたのです。

どちらにしてもどのような政治を行うかで、そこに住む人々の生活が決まります。知事選にせよ統一地方選にせよ、どのような政治家を選ぶかは本当に大事なことといえるでしょう。

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1月 14 2011

酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむ②

斉(せい)が楚(そ)に攻め込まれ、その楚の大軍を斉は趙(ちょう)の援軍を得て撤退させ、その戦勝祝いの宴会の席でのことです。

司馬遷著 史記Ⅵ 歴史の底流 村山孚+竹内良雄=訳 より抜粋します。

<酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむ

威王はたいへん喜び、後宮で酒宴を催し、 淳千こんを招いて酒を賜(たま)わった。席上、王はたずねた。

「先生は、どのくらい飲めば酔うのかな」

こんはこたえた。

「一斗でも酔い、一石でも酔います」

「一斗で酔うくらいなら、なんで一石も飲めるのか。そのわけを教えてくれ」

「大王の御前で酒を頂戴するとします。そばには司法官がおり、うしろには監察官がひかえているので、わたしは、びくびくして一斗もやらぬうちに酔ってしまいます。

親のところに大事な客がみえたとします。わたしは衣服をととのえ、礼儀作法どうりにお相手せねばなりません。ときにはお流れを頂戴し、また尊客の長寿を祝ってしばしば立ち上がりますから、わたしは、二斗もやらぬうちに酔ってしまいます。

久しぶりで、ばったり友人と出会ったとします。思い出話に興じたり、気のおけぬおしゃべりをしながらですから、まあ、五、六斗はかたいですな。

村の無礼講で飲むとします。この日は男女が思い思いの席につき、互いに相手を引きとめて、杯をやりとりします。しまいにはすごろくや投壺(なげや)まで持ち出してあいかたを決めるのです。こうなれば手を握ろうが流し目をくれようが、だれもとがめだてしません。そちこちに耳環やかんざしが散らばる賑やかさ。わたしもつい愉快になって酒がすすみ、八斗くらいで、三度に一度は酔いつぶれます。

さらに日が暮れて宴たけなわとなったとします。残った酒樽が寄せ集められ、互いに声をかけあって、男も女も同じ場所に集まってきます。履物はばらばら、皿・杯は乱れ散ったままで、ほどなくあかりが消えます。最後にわたしだけが主人に引きとめられ、ふと闇のなかに手を伸ばしてみますと、はだけた襟(えり)に触れ、そこから柔肌のほのかな香り……。このころには、わたしもすっかり酩酊(めいてい)し、一石は飲んでいます。

“酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむ”と申しますが、まこと、万事そのようでございますな」

物事は極めてはならぬ、極めてはかならず衰えるーーー淳千こんはこの道理を述べて、それとなく、王をたしなめたのである。

王は言った。

「よくぞ申してくれた」

いらい、連日連夜の宴会はとりやめになった。淳千こんは、諸侯の接待役を命ぜられ、王室の宴会にはいつも王のそばに侍(はべ)ることとなった。>

この中国の戦国時代同様現代の日本も、酒を飲んでは乱れ、遊びすぎては乱れています。最近は遊びの延長で子供をつくり、結局はできちゃった結婚などしている夫婦がいますが、このようなやり方は当然正しくありません。

こんな順序も何もなくできてしまった子などは、その夫婦がよほど愛情を持ってしっかり育てないと、将来その子に泣かされることになります。

「酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむ」という故事は、現代の人々にも大いに言えることなのではないでしょうか。

(いつも言っていますが、別に勝ち負けで人のいい悪いが決まるわけではないので、日本代表の三選手がゴルフのロイヤル杯で勝とうが負けようが関係ないのですが、ただ日本チームが活躍し、勝ってくれた方が法のことを書きやすかったのは確かで、アジアのチームが負けてそれができなくなってしまい、ブログの内容もまったく変えなければならなくなってしまったものですから、腹が立って日本人三選手を少々いじってしまいました〔笑〕。あしからず……。しかし、よく考えてみれば日本代表の三選手は若手とはいえ実力のある選手ばかりです。仮に日本選手が活躍しロイヤル杯でアジア勢が勝っていたとしても、日本勢が勝ったのは実力だろうと誰もが思い、別に法のお陰でよい結果がでた、とはほとんどの人が思わなかったでしょう。私のブログ的にはコッチのほうがよかったのかもしれません〔笑〕)

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