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1月 12 2011

酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむ①

前回も書きましたが、こう多くの人が自分の使命に気づかず果たせずでは、さすがにGTS心の研究所も長くはやれそうもありませんが、伝えられる間は法を伝えます。

先日タイで行われていた、男子ゴルフのアジアと欧州の対抗戦である、ロイヤル杯ゴルフが終わりました。

アジア選抜の代表として日本からは、石川遼、池田勇太、薗田峻輔の三選手が出場しました。

遼君など絶好調で一日目二日目と勝利を重ね、今年はアジアの楽勝かと思われた最終日に、アジア勢がボロ負けして逆転で欧州勢に優勝をさらわれました。

去年ゴルフの選手には法が伝わったでしょうと書いて、今年初のこの試合で日本選手が大活躍して優勝していれば、やはり法を知るといいことがありますと書いて、法を知る大切さを改めてこのブログに書こうと思っていたのですが、最終日にボロ負けして(おまけに日本の三選手も三連敗です)優勝を欧州にさらわれ、このブログの内容も書き換えなければならず、法の大切さを伝えることもできず、えらい迷惑です(苦笑)。

ただでさえ法が拡がらずに苦労しているのに、法を伝えたと書いた途端これでは、法の大切さがまったく伝わりません。まったく日本チームもやらかしてくれます(笑)。

一体どうしたのでしょうか?一日目二日目はあれほど調子よく勝っていたのに、最終日は変なプレッシャーでもかかったのでしょうか?それにしてもいくら若いとはいえ日本の三選手は、国内の試合で優勝経験がある選手ばかりなので、プレッシャーで負けたといってもそれもピンときません。

「これが今の実力」などと謙虚なことを言っておりましたが、若者が最終日にこんな逆転負けを食らうには、考えられる理由としては後一つしかありません。きっとそれで負けたのですね、よく分かりました、それなら仕方ありません。

マァ、そんなに難しい理由ではありません。ただの遊びすぎでしょう。(笑)

有名選手は国内ではあまり遊ぶこともできませんし、タイに行って羽を伸ばしすぎたのでしょう。それで最終日に大逆転負けを食らったという訳ですね。(勝手に決めてますけど〔笑〕)

男は特にそうですが時には遊びも必要です。それならそれで仕方ありませんが、試合に影響がでるほど遊んではいけません。何でもほどほどが大事です。それをよく知ってください。(何べんも言いますが、勝手に決め付けて書いています〔笑〕)

私は歴史が好きで歴史の本をよく読みますが、そのなかでも特に中国の歴史が好きで、史記やら三国志やらよく読みました。

特に史記などは、王や武将たちのほかにもいろいろな人が登場し興味深いのですが、その史記に出てくる登場人物のなかで、淳千こん(じゅんうこん……“こん”という字はパソコンの中に漢字がなかったのでひらがなで書きました)という人がいます。この人物が宴会の席で王に向かって面白い話をしています。

この「淳千こん」という人は、中国の戦国時代の雄であった斉の国の威王(いおう)に仕えた人で、ずいぶんおもしろい方だったようで、史記にはこの人のエピソードがいくつか記録されています。

その中の一つに宴会好きの王を諌める場面が出てきます。

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1月 10 2011

愛のない企業

前回愛のある企業を書いて、今回愛のない企業を書くのは大変心苦しいのですが、今日ここに書く企業は、特別な使命を持ってこの世に出てきているのですが、そのことにまったく気づいておりません。高橋先生と園頭先生亡き今、このことを伝えるのはその教えを継いでいる私しかおりませんので(誰も言ってくれませんので自分で言いました〔笑〕)、そのことへの苦言もかねてこのブログに書くことにします。

その企業とは私の地元の企業であるトヨタ自動車です。

トヨタ自動車は今や世界のトヨタといわれ、世界中の人が皆知っています。トヨタは環境に配慮したハイブリットカーや、あちこちで災害が起きている災害地に義援金やら支援やらしていて、まったく愛がないとは言いませんが、しかし、その仕事の仕方を見ると(私は地元だけに)とても愛があるやり方とは思えません。

その最たるものが「かんばん方式」なのではないでしょうか。

極力在庫を持たず、必要なものを、必要なだけ、必要な時にジャストインタイムで納入する、かんばん方式は無駄がないと世界中で絶賛されていますが、なぜそれほど絶賛されているかが私には分からないのです。

この方式だけみれば確かに無駄がありませんが、しかし、それをしなければならないほうからみれば無駄だらけなのではないでしょうか。

トヨタはこの方式で何ヶ月も前から予定を決めます。そのためにトヨタの多くの下請け会社はトヨタの予定にあわせて必要でないものも、必要以上に、必要でない時に作っておかなければなりません。(そうしないとジャストインタイムで納入しなければならない、トヨタ車の部品の納入時間に遅れでもしたら補償問題にもなりかねないからです)

これだけの無駄を下請け会社に押し付けて、ではその分金を余計にくれたのかといえば、最近のトヨタはコストダウンはしてもアップはしません(最近はどの大会社もそのようになってしまいましたが)。一頃前のトヨタは下請け会社を生かさず殺さずで「濡れ雑巾をカチカチに絞ってもうひと絞り」する、と言われておりましたが、最近のトヨタは「乾いた雑巾を絞って破く」と言われております。

これでは下請けもたまりません。「かんばん方式」とは自分のところの無駄を、下請け会社に押し付け、ただ自社の在庫の管理を、下請け会社にやらせているだけの話なのではないでしょうか。

それともこの「かんばん方式」には、もっと深い意味があるのでしょうか?私にはよく分かりませんが、多くの下請け会社は言っています「あんなことはトヨタだからできるのだ」と。(私は前の仕事でよくトヨタの下請けを周っていましたので、現場の声をよく聞いています)

トヨタほど力があって(力ずくで有無を言わせず)初めて、あのような無茶なやりかたが通るのであって(これでは戦国時代の大名と同じです)、少々の会社がトヨタのような「かんばん方式」などやれば、誰もそんな会社は相手にしないという意味ですが、なかにはトヨタの「かんばん方式」についていける会社もあるかもしれませんが、そんな会社はごく少数でほとんどの下請け会社が、どれだけ仕事をしても儲けがでないと嘆いています。(前回紹介した会社とはえらい違いです)

トヨタは今ほどの大会社に発展していく時に、どれだけこのような下請け会社に世話になったと思っているのでしょう。それが自分の会社が大きくなりどこも文句が言えなくなった途端にこれです。これでは創業者の豊田佐吉翁の遺訓をまとめた「豊田綱領」も泣いています。「豊田綱領」の中に「温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし」と書いてあるではないですか。(家族に対しこのようなことができるのでしょうか)

散々世話になった下請けを苦しめ、他の国々の災害支援などしているようでは、ただの“いい格好しい”に過ぎません。まず「隗より始めよ」なのではないでしょうか。

トヨタは何も分かっていないのです、戦後なぜあれほど急激に大会社へと発展して行ったのか。(自分のところが優秀であったと思っているのかもしれませんが、ではなぜトヨタに優秀な人材が集まったのか、ということです)

それはトヨタには特別な使命があったからです。(松下電器〔現パナソニック〕創業者の松下幸之助氏と同じ使命ですが…松下幸之助氏は結局その使命に気づかれずに亡くなられました)ですから、天が大いに力を貸して今のような大企業へと発展していったのです。

そのことにトヨタはまるで気づいていません。

その使命に気づかず今のような仕事を続けるならば、やがてトヨタは大きな報いを受けなければならなくなるでしょう。世界のトヨタといえども近い将来、没落していくことになるのです。(それは天が力を貸さなくなるからです)

そうならないよう願うしかありませんが、トヨタ自動車にせよパナソニックにせよ、今生これだけ特別な使命をもって生まれてきた人たちが、その使命に気づかずまた失敗の連続では法が拡がるはずありませんね(〔笑〕…あまり笑い事でもありませんが)

いずれにせよトヨタ自動車に特別な使命があるのは事実です。ですからここにそのことを記しておきました。

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1月 07 2011

愛ある企業と報道のあり方

今年の一月三日付の中日新聞の一面に「誰も犠牲にしない企業」という題で、業績より“正しさ”追求、と大きく書かれ、いくつかの企業を紹介するシンポジウムの記事が載っていました。

その紹介されていた中のある会社は、香川県にある会社で“転ばない靴”を作られているということでした。その靴は体が不自由な人がはいても(足が十分に上がらなくても)、つまずかないように工夫してあり、体の不自由な方や年をとった方たちには感謝されているそうです。しかも靴の色もピンク色まであって、老人施設のおばあちゃんたちには「ピンク色の靴を履いてみたかった」と大変評判がいいそうです。

いくつになっても女は女です。「ピンク色の靴が履いてみたかった」という心はあって当然ですし、そのような心を持っていたほうが気も若かくてよいと思います。

この会社は靴の評判がいいだけでなく、業績も右肩上がりだそうです。

この中日新聞の記事の最後には次のようにくくられていました。

<シンポの最前列に招かれた法政大大学院教授の坂本光司(六三)は、思わず目頭を押さえた。全国を巡って追い求める「誰も犠牲にしない会社」が、ここにも輝いていた。

師走。福井市の染色加工メーカー、ウエマツ。社長の上松信行は「人件費を上げるのが経営者の使命。頑張るのは社員だから」と言ってのけた。

別の企業に勤める夫が病気になった社員に、夫の稼ぎ分を一年間にわたって支給。子供が生まれて生活費に困った社員には、月二万円の手当てを出した。新素材の審査会などで次々と受賞を重ねる社員たち。その力の源を明かす社長に坂本は「背中が震えた」

行く先々で目の当たりにするのは、業績より“正しさ”を大事にする経営者の姿だ。>

以前は企業といえばバカの一つ覚えのように「業績を上げる」ことが一番よいと言われておりましたが、最近は上記の記事のように愛のある企業が一面で取り上げられています。このような記事の書き方は正しいと思います。まさにこのような企業が“正しい企業”といえるでしょう。

自分のことを二の次にして社員を思いお客様のことを思う、そのような人が社長をやっている会社はよいことが起きてくるのです。それはお客様のことを思って利益をあまり考えずよい製品を作ったり、富を必要に応じて分配する、愛のある会社には天も力を貸してくれます、ですからよい結果が次々に出てきて、必然的に業績も上がるということになるのです。

神は利益を上げる会社が一番いいとは思っておりません。前にも言いましたが神の心は集中より分配です。上記の会社のように利益をあまり考えずよい製品を作ったり、困っている社員には会社の利益を分配する、ということは神の心にかなっています。当然このような会社は天が協力しますのでよい結果が出てくるのです。

このような愛のある企業を紹介するということはよいことで、これも神の心にかなっています。ですからこのような記事をたくさん新聞に載せれば、その新聞社はやはり天が協力してくれますので部数も自然に増えていくということになります。(もちろんよい記事を書いた記者も自分自身の徳となります)

だいたい今までの新聞やテレビのニュースなどの報道の仕方は、あまりにおかしいのです。いろいろなニュースを流すことはいいのですが、そのほとんどが悪いニュースです。(企業も利益を上げるのが第一のような書き方でしたし)

どこどこで殺人事件があった。どこどこで大事故が起きたなど、あまり聞きたくないようなニュースがほとんどで、先ほどのようなよいニュースはごくわずかです。なぜ、逆にしないのでしょうか?

悪いニュースばかり聞いていると、悪いことが起きるのが普通のように感じてきて、特に若者などは「皆がしているのなら自分も」という気にもなってしまいます。

逆によいニュースをたくさん流せば、自分もそのようにしなければならないと、そのニュースを見ただけでよいことをする人が増えます。テレビや新聞のニュースだけでも十分人を善導できるのです。

今までのように殺人事件や大事故など、そんな事件の記事は最小限にとどめ、先ほどの中日新聞の記事のように、周りの人のことを考える思いやりのある愛のある会社や、出来事などをたくさん記事で伝えるようになれば、世の中はほおっておいてもよい方向に変わっていくでしょう。(それだけテレビや新聞は多くの人々に影響がある、ということです)

これからはテレビや新聞の報道のあり方も、変わっていかなければならないと思います。そのような自覚を一人でも多くの報道関係者がもたれるならば、世の中は大きくよい方に変わっていくことになるでしょう。

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1月 05 2011

知事選と統一地方選挙

今年は統一地方選が四月にありますが、私の住む名古屋ではその前の二月に、知事選と河村市長の辞任に伴う市長選、市議会の解散を問う住民投票のトリプル投票があり、ずいぶんな騒ぎとなっています。

昨日は自民党の街頭演説を聴いてきましたが、私は前にその県の知事の心が悪いと、全国に起きている気づき(災い)の現象に輪をかけた現象が、その県に起きてきますよ、と書きました。

そのようなことも踏まえて、私のブログを見ている方は、今度の知事選と統一地方選で投票する政治家を決めていただきたいと思います。

しかし、よそのことを言っている場合ではありません。私の住む愛知県は民主王国などといわれ危ないことこの上なしです(笑)。

しかも名古屋では河村市長に対抗するため、民主党は現民主党衆議院議員の石田氏を、河村氏の対抗馬として市長選に出馬させるということを決めたようです。

この石田という人は元犬山市長で「全国学力テストへの不参加」など、おかしな政策をいくつもして、犬山市民の多くからソッポを向かれた人で、よりにもよって民主党は何でこんな人を河村市長の対抗馬として立候補させるのか、まったくアホと違うかと思ってしまいました。

さすが民主党分かりやすいと思っていたら、その民主の擁立する石田氏に自民党の市議団も乗っかるということで、あきれてしまいました。政策も何も関係なく、ただ反河村ということだけで民主推薦の石田氏に乗っかるとは、自民の市議団も話になりません。

私は河村市長のやり方も、少々強引ではないかと思っておりましたが、これで誰を入れるか決まりました。やはり河村ー大村ラインでいこうと思います。(昨日の自民党の街頭演説で、自民の推す今度の知事候補である重徳氏の演説も聴きましたが、少し知事には早いような気もしましたし)石田氏のような候補者に乗っかる、今の自民党の市議団も正しく名古屋のことを考えているとは思えません。こんな市議団など解散して入れ替わったほうがいいのです。石田氏など応援して、もしこの人が名古屋の市長にでもなれば、名古屋に何が起きてくるか分かりません。名古屋を潰すつもりでしょうか。法を知らない恐ろしさがこのようなところにも出ています。

自民党の市議団もダメですがやはり民主党は正しくありません。このような地方の立候補者を見てもそれはよく分かります。これだけ(悪と)分かりやすい立候補者を立てたのも天の配剤でしょう、少なくとも愛知県は御園(知事選)ー石田(市長選)の民主のコンビは絶対通してはならないということです。

もしこの二人が知事となり市長となった場合、愛知県はどうなるか分からないでしょう。今騒がれている東海大地震など、それこそ名古屋を震源地として起きるかもしれません。(別に脅しているわけではありません、事実を書いているのです)

この二人が当選するようなら、私一人でも名古屋から逃げ出そうかとも思いますが、自分一人逃げ出すのも男らしくありませんし、名古屋人の一人として私にも責任がありますので、最悪この二人が当選し名古屋に大地震でも起きた場合、仕方がないのでここで死ぬしかないかとも思っています(笑)。

しかし、そのようなことが起きないよう私は警告しているのです。天の怒りに触れるような人を知事や市長に選んではならないと。

いずれにしても今年は、知事選に統一地方選(下手すれば解散総選挙もあるかもしれません……というか、あってほしいのですが)と大事な選挙が続けてあります。有権者の方々は賢明な選択をしていただきたいと思っています。

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1月 02 2011

正月

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年どれだけできるかわかりませんが、伝えるべきことは伝えていきたいと思っていますので、またご協力よろしくお願いします。(新年早々いきなりお願いしてます〔笑〕)

今年も多くの人が正月には初詣に行き、どこのお寺も神社もにぎわっているようです。

しかし、普段神も仏もあるものかと無神論を言われている人たちが、初詣に行って一体何に対して祈っているのでしょう?初詣に行っているお寺の坊さんに祈っているのでしょうか?それとも行っているお寺に祈っているのでしょうか?まさか普段からいないと言っている神に祈っているのではないでしょうね、それともただの習慣で行かれているだけなのでしょうか?

習慣で行かれている割には、初詣に行って何を祈られましたかと聞くと「今年は景気がよくなりますように」とか「いい大学に入れますように」とか「株が上がりますように」とか、漠然と祈ってはいるようですが(あまり細かく自分が祈ったことを言うのは恥ずかしいのかもしれませんが)しっかり自分の欲望丸出しの現世利益を祈っています。(こういう祈りをしているだけでも十分恥ずかしいのですが〔笑〕)

このようなことを聞くと習慣で行っているとも思えませんので、多分何かに対して祈っているのでしょう。何に対して祈っているのでしょうか?こんな祈りを寺や坊さんにしてもきいてくれるはずがありませんので、多分初詣に行っている多くの人たちが、普段はないといっている神に対して祈っているのでしょう。

まったくあきれてしまいます。これでは普段は親などいないといっている人が、正月だけは親に金をせびりに行っているようなもので、厚かましいにもほどがあります。

親に対してこんなことをしてもよいことを言われないのに、この世界のすべてを創られた神に対してこのようなことを平気でやっているのですから、普段神などいないと言いながら初詣など行って祈っている人は、大バカ者と言われても仕方がないでしょう。

しかも祈ることといえば、自分(あるいは自分たち)さえよければそれでいいという、自己中の祈りで、自分の心の向上や世の平和などまったくといっていいほど祈りません。こういう祈りをしていて、神に対し恥ずかしいとも思わないのでしょうか?

現在の日本人は、無神論を言いながら初詣など行って、いないといっている神に祈り、また祈り方も間違っているのですから、そんな祈りを神仏がきいてくれるはずがありません。初詣に行って願いがかなったという人は、それはただ単に願いがかなうように努力したからかなったのであって、決して神仏がその願いをきいてくれたわけではありません。

神仏に願いをきいてほしければ“法”を知るしかないのです。

漫画で有名な一休禅師は次のような歌をうたって世の人々を戒めています。

「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

一休禅師は室町時代の禅僧で当時の坊さんとしては異色の人でした。坊さんのくせに酒や女、博打と何でもこいで奇行が目立ちました。しかし、言われていることは的を射たことが多く、当時の文化に大きな影響を与えた傑僧です。

その一休禅師が、街中を歩きながら骸骨を手に持ち、それを振り回しながらよく先ほどの歌をうたっていたそうです。

人生を考えると夢とまぼろしの連続のようなものである。人も一皮向けば皆骸骨である。どんな美人も死ねば白骨になる。早く目を覚ませ、と。

「年をとるほどあの世は近い。骨になる前に目を覚ませ」

正月早々、縁起でもないと思われるかもしれませんが、この一休禅師の言われていることは正しいのです。

周りに年寄りがいれば聞いてみるとよいでしょう「おじいさん(またはあばあさん)のこれまでの人生は長かったですか、それとも短かったですか」と。

すると誰もが「短かった」と答えるでしょう。なかにはアッというまであった、という人もいるかもしれません。

人の人生など八十や九十まで生きようが、たとえ百まで生きたとしてもアッというまであったと皆思うのです。長い人生であったと思う人など一人もいません。であるならば、人生とはまさに一休禅師が言われるように「夢やまぼろし」のようなものでしょう。

その夢のようなアッという間の人生を、金や地位や名誉ばかりほしがって一体何になるのでしょうか。それをほしがるばかりに、怒りや妬みや愚痴ばかりの人生なら夢見が悪いことこの上なしです。

金にせよ地位にせよ名誉にせよ、死んでもっていけるわけではないのです。そして自分自身の肉体さえもです。すべてこの世に置いていかなくてはならないのです。夢のような一瞬の人生に死んでもっていけないものをほしがったり、きれいに磨いてばかりいても仕方がないのです。(どれだけきれいな女性も一皮向けば骸骨です)

死んでも持っていけるものの得になることをして、死んで持っていけるものをしっかり磨くことが大事なことでしょう。死んで持っていけるものとは自分の心だけです。(心といっても別に光の球のようになってしまうのではなく、霊体が備わっていますが、ただ死んでしまうと自分の心の状態がまともに体に出てしまいます。幽霊やお化けといわれるものが皆が皆暗い顔をしているのは、この世に恨みを抱いて死んだ人〔地獄に堕ちている霊〕は当然心も暗いので、そのような顔になるのです。明るいお化けがいないのもそのような理由からです〔笑〕)

二十一世紀は心の世紀といわれ、輪廻転生も医学の世界で認め始められています。近い将来あの世(意識界)も科学で認められるようになるでしょう。

私たちはこの世の生活が終わればあの世で生活し、永遠の転生を繰り返す魂なのです(エネルギー保存の法則)。

であるならば、夢まぼろしのようなこの世しか通用しないものを磨き(顔や体)この世しか通用しないもの(金、地位、名誉など)ばかり求めても意味がないのです。永遠に自分のものである心を磨くことこそ肝要で、その心のためになる徳を積むことこそもっとも大事なことである、ということです。

そのためにはどうすればいいのか、ということをもっと深く考えてもいいのではないでしょうか。

正月早々重い話になってしまいました(笑)。

改めて今年もよろしくお願いします。

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