11月 22 2013
法の価値
昨日は秋田で土砂崩れが起こり、一人の方が亡くなり、四人の方がまだ行方不明だそうですが、よりにもよって、人が作業中のところに大規模な土砂崩れが起きるとは、本当に運の悪い話です。
残念ですね、法を知る人が多ければこんなことは起きないのに、知る人が少ないばかりに、こんな災いが立て続けに起きています。
このブログを読んで、法を知る人が増えればこんな運の悪いことは起きないのに、いつまでたっても法が拡がらないばかりに、こういう非常に運の悪い現象も起きてしまうのです。(その地域に法を知る人が多ければ、だいたい北陸にあんなに雨が続くということはありません。〔もう一週間近く雨が断続的に続いていますもんね〕しかもかなり激しく降ったところもありますし)
このブログを読んでる人の罪は大きいということになります。(法を知りながら、その流布に協力しようとしないんですから。しかも邪魔する人までいます)
昨日の話しを思い出してください。今生は多くの人の考えが変わり、しかもそれは現在も継続中なのです。
この多くの人の考えが変わるということは、どのような奇跡にも勝ると書いたのは、嘘でも何でもありません。人の考えが変わる、すなわち心が変わるということは、その恩恵は計り知れないことだからです。
その心が変わる大きな恩恵を誰も理解していないのです。
その大きな恩恵とは、この世にいて心が変わったといっても(もちろんよい方に変わった場合ですが)せいぜい、あの人前よりいい人になったねとか、明るくなったねとか、優しくなったね、といわれる程度ですが(もちろんドンドンよくなるなら、周りに奇跡も起きだしますが)一番大きいのは死んだ後の話なのです。
死んであの世に持っていけるものとは何でしょうか?
この世で稼いだお金でしょうか?それともこの世で得た名声でしょうか?それとも地位や名誉でしょうか?残念ですが、このどれも持っていくことはできないのです。このようなものはすべて、この世に置いていかなくてはならないのです。(自分で稼いだお金を、あの世まで持っていった人って誰かいますか?自分の地位や名声を、あの世まで持っていった人はいるのでしょうか?そんな人は誰一人いないのです)
死んであの世に持っていけるものは“自分の心”これだけなのです。(死ねば、俗にいう幽体離脱をしてあの世に帰ることになりますが、その時に一緒に持っていけるのは、自分の本当の体である光子体〔こうしたい・幽体のことですが、その幽体は光でできている体ですので、このように呼びます〕と、その光子体に備わっている自分自身の心、それだけなのです)
あの世に持っていけるものは心だけ、ここに心が変わることの大きさ、その恩恵の深さがあるのです。
そうではないですか、心が変わるということは、死んだ後の自分がまともに変わるということなのです。
そうであるなら死んだ後、天上界にいける人は当然増えると思いますし、地獄に行かなければいけなかった心の持ち主が、その地獄を免れるとか、仮に地獄に堕ちても(私がくどいほど反省しないといけないといっていますので)地獄での反省が早まり、早く地獄から天上界に昇れる人も増えてくるわけです。
私たちは、この世の何十倍も何百倍もあの世での生活の方が長いのです。(釈尊は、あの世こそ自分たちが帰るべき本当の我が家である、といわれているくらいですから)では、あの世での、より長い調和と安らぎの生活が保障されるわけですから、心が(よい方に)変わる恩恵は計り知れないというわけです。(もちろんそれだけではありません。心が変われば、それは自分自身の心がそれだけ成長した〔神の心に近づいた〕ということになります。自分自身の魂の成長、これほどの恩恵はないのです)
これが、心などどうでもいい、表面上さえ取り繕っていればそれでいい、という考えで、しかも、この世はこの世だけ、神も仏もなく死後の世界もない、というこれまで通りの考えであったならどうなるでしょう。
人との付き合いは表面上だけ(その人がいないところで、いない人の悪口を平気でいい)とにかく自分がよくなればいい、自分が悪いことをしても、それを人のせいにして、自分が罪に問われなければそれでいい、人と仲良くするのは、最終的には自分が幸せになりたいから、自分が楽しみたいからで、自分がよければそれでいいのであって、それでも死んでいくのはいやだ、怖いという思いを持ち続けて、死の恐怖を持ちながら死んでいくのです。
表面上だけ自分だけ、よくなればいいとしか思っていないのですから、それがよくなるには、金をたくさん稼ぐことがそうであるし、地位や名声を得ることがそうであるのだから、当然、自分の心などそっちのけにして、ただその目的に向かって進むだけなのです。
この世はこの世だけなのですから、この世で金を稼げば、この世の幸せは得られるのであるし、仲間と楽しみたいのであれば、それに名声や地位を得れば、より多くの人とより多く楽しめるわけです。(つまり金を稼げば〔この世だけのですが〕多くの幸せが得られ、地位や名声を得れば〔多くの人に自分が知られるわけですから〕多くの人が自分の思い通りになる、というわけです)
そこに神を思う心もなければ、自分の心の成長もないのです。(心そっちのけですから)つまり、すべて表面上だけの付き合い、表面上だけの楽しみがあればそれでいいという考えなのです。
そうして、最終的には死の恐怖が常にあります。(だから、その日々の死の恐怖を考えたくないため、そうしているということもいえますが)しかし、どれだけ嫌がろうが怖がろうが最後には死ぬのです。
そのような心そっちのけの生活をして、怖い怖いと思いながら死んだらどうなるでしょう。
心は真っ黒です。(反省など〔少しくらいはしたかもしれませんが〕しなかったんですから)そうして人との付き合いは表面上だけです。(人の悪口をいいたくっていたということになれば、それは調和していたとはいいません。つまり人との調和がまるでできていなかったということになります)金も地位も名声もあの世に持って帰ることはできません。(したがって、そのようなものはどれだけ得ようと、少しもあの世では評価されません)そうして神も仏も認めず、この世だけだと思って死にますので、怖い怖いと思いながら死んでいくのです。(神を思わないのも怖がるのも悪なのです)
つまり、二重にも、三重にもわたって(心に)悪いことしながら死んでいくのです。この人がはたして天上界に行けるのでしょうか?
特別、この世で悪いことをしていない人でも、あの世から見ればこれだけ悪いことをしているのです。では、ほとんどの人が、これまで通りの考えでは、天上界にはいけないと思われないでしょうか。
つまりこれまで通りの考えでは、この世だけでなく永い永いあの世での生活まで、不幸なものになるということです。(それでも最終的には救われるのですが)
このブログを読んで法を知って心が変わるのであれば、この世の生活だけでなく、あの世の世活まで(本当に)救われることになるのです。これほどの恩恵があるのでしょうか?
また、それほどの恩恵があること(法の流布に法の勉強)を誰もしようとされないから、これだけの災いが起きているのです。
このブログの価値が少しはお分かりいただけるでしょうか?(これだけ書いても理解できる人ほとんどいないのでしょうが〔涙〕)
しかし事実は事実です。だから私はこの神の運動を手伝わないといけないと、繰り返しいっているのです。
これだけの災いが起き、そうしてこれだけの幸せが手に入るかもしれないのです。(それは自分の心と行い次第です)
何でいつまでたっても法の流布を誰もやろうとしないのでしょうか?



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