1月 05 2014
道徳と宗教の違い
相変わらず、不気味なサイレンの音は響いていますが(昨日など、ずっとどこかでサイレンがしていたような気がします。夜遅くまでです)昨日このブログを書いてる時に、サイレンが止まらないと書きましたが、その理由は、この近くで火事があったからでした。(アパートから出火し二部屋が全焼したそうです。亡くなった人も出たそうです)
この辺り、こういう火事が最近は多いのではないでしょうか。よく消防車のサイレンも聞きますから。(病人だけではなく、こんな火事まで増えているとは。本当に名古屋は祟られています)
火事といえば、昨日のJR有楽町駅の近くの建物で起きた火事は、パチンコ店の配線が、ショートしたため起きたとかニュースでいっていましたが、その配線は年末に点検したばかりだったそうです。
奇妙な話ですね、そんな点検したばかりの配線がショートして火事になるなんて。
それでは、どこの配線がショートして火事になっても、おかしくはないという話になり危なくて仕方ありません。
こういう事件を知ると、これからは、本当に心のあり方が問われてくるなと改めて思います。悪い心のままでいると、どんな災いが起きるか知れないのです。
こういうことは偶然ではなく必然に起こされています。それは名古屋の現象を知るのであれば、理解できるのではないでしょうか。もうこのようなことを、運が悪かった、ですませる時代ではないのです。
名古屋など今日も朝からサイレンが響いています。(救急か消防か知りませんが、もう何度も聞こえてきます)心のあり方を正す、もはや待ったなしでしょう。
しかし、その心のあり方を正そうにも、では、どういう心ならいいのか?という、それが分かりません。これまでの宗教では、もうこの異常現象を抑えることができないからです。
ということは、これまでの宗教は間違っていたということになります。ではまず、そのこれまでの宗教の間違いを書いてみましょう。(間違いを知るのであれば、おのずと正しい道は見えてくるはずですから)
その前に道徳と宗教の違いを書いておきます。この道徳と宗教をゴッチャにしている人も多いからです。
園頭先生は次のようにいわれています。(「正法と現代宗教」から抜粋します)
<宗教は、神、超越的絶対者、あるいは信仰の対象とする現実世界から離れた別の次元の神聖なもの、神秘的なものと、自分一人の心のあり方とその行為を問題とするものである。ということは、神、あるいは霊と自分とどういう関係にあり、自分がどのようにあればいいのかという、自分の心のあり方と生き方を明らかにするのが宗教であり、道徳は、この世に生まれてから死ぬまでの、生きている間だけの人と人との関係、すなわち、先祖、親、夫婦、兄弟姉妹、親戚、隣人、職場の上役、同僚、部下と、自分とがどういう関係にあるのが正しいかということを教えるものである。
だから、先祖に対する感謝、親孝行、夫婦の調和などは道徳であって宗教ではない。>
つまり、宗教とは神や霊と自分との関係と、霊の向上、人格の向上と悟りを語り説くものであり、道徳とは、神や霊の存在を説かず、肉体を持って生きている間の人の生き方を説くものなのです。
正しい人としての生き方は、人格の向上にはなりますが、ただそれだけであり、現在の日本ように“別次元の神聖なもの”(神または霊)が起こされているのでないか?と思われる出来事に対しては、それだけでは救われないのです。
つまり、今起きている現象に対し、道徳をいくら実践しても救われないということです。
やはり、神を知り、霊の存在を知り、そうして自分の霊性を高めないと、現在起きている現象から逃れることはできないのです。(道徳以上の、もっと人として深いことを知らないといけないということです)
それには、神の心を知って、それを実践していかないと、救われようがないということです。だから、この法(如来の言葉、それは即ち本当の神の心)を知らないと救われようがないのです。(だから、もちろん法とは宗教ですが、これまでの宗教とは違います。はっきりいえば、これまでの宗教が本当の宗教〔本当の神の教え〕ではなかったということです)
だから、知らないといけませんが、これまでもその如来の言葉を、このブログに書いております。では、その如来の言葉と、現在ある宗教(偽)はどれくらい違うのか、具体的に書いてみましょう。
(今回のブログだけでも、すでに既存の宗教の間違いが分かります。先祖に感謝するということは、宗教ではなく道徳なのです。その道徳を既存の宗教は、さもそれが宗教的に意義があるかのように“先祖供養”としてやらせているのです)



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