1月 06 2014
現在ある既成宗教の始まり
園頭先生のご著書の中で「正法と現代宗教」という本があるのですが、この正法と現代宗教は、ただの批判本としかみられていませんでした。(現実にそのような批判をしていた人もいましたし、他の宗教団体をかたっぱしから批判されていますので)
しかし、今のような現象(次々にサイレンが鳴り響く…今日も朝から何度もしています)が起きだして、現代の宗教が神が起こされる業に対し、何もできないということを露呈すると、この本の批判がいかに当たっていたかよく分かります。
この「正法と現代宗教」は、正しい宗教とはどういうものなのか、その基準がよく分かる、大変貴重な本といえるのです。
新興宗教の批判の前に、現代の宗教がなぜ、このような次々現れる神の業に対し、まったく無力になってしまったのか、その理由をこの「正法と現代宗教」より抜粋しておきましょう。
<現在の日本の宗教事情を理解するためには、そんなに遠く溯(さかのぼ)らなくても江戸時代以来の宗教のあり方を少し知る必要がある。中世の鎌倉時代の仏教と比較して江戸時代は、多くの文献にも明らかにされているように教団の低俗化、高邁な教理から外れた民衆との妥協、僧侶の私生活の腐敗ぶりが顕著であった。しかし、この傾向は現在まで続いており、既成仏教の腐敗堕落が、新興宗教の出現を促したといっても過言ではない。
ではなぜ、江戸時代に仏教の腐敗堕落が顕著に現れたのかといえば、仏教の大衆化に起因するものといえる。この時代に仏教が大衆の間に広く浸透するに至ったのは、次の五つの理由が考えられると『庶民信仰の幻想』(毎日新聞社刊)の著者は書いている。
第一に、中世までの仏教は、貴族、武士、一部の町民の有力者だけのものであったが、江戸時代になり、檀家制度がつくられた。このことにより仏教が国教的なものとして、一人一人にまで信仰の対象として浸透していくようになった。
第二に、江戸時代になって寺院が多く建立された。現在われわれが目にする寺院の八割から九割までが、江戸時代に創建されたといってもよい。
第三に庶民の墓が作られてくるのも江戸時代であり、ほとんどの墓が元禄年間(一六八八~一七〇三)すなわち江戸中期以降のものである。(しかし庶民一人一人の墓が作られるのは、明治維新以後である)この墓の建立にともなって葬祭儀礼がさかんになるのも、また江戸中期以降のことである。
第四、庶民の信仰を集める流行神(はやりがみ)の登場もまた江戸時代の特色である。それは熱狂的な信仰の昻(たか)まりとひろがりをみせる。そしてこれらの人出に目をつけた寺社は、お札やお守りを売り、その賑わいに一段と拍車をかけ、霊験の権威づけもした。
第五、病気治し、安産、結婚、離婚、貧しさからの救済、家庭不和の解消など、庶民が生活のなかで抱えている様々な問題を解決してくれる神仏の登場も、江戸時代の特色である。
堕落した既成宗教は、民衆の欲求に応えるものは何ももっていなかった。民衆というのは、いつの時代でも現世利益を求めているものである。しかし、それだけでよいのかということを今一度考える必要があるのである。>
現在のように“現世利益”中心の宗教となったのは江戸中期からのことでした。その始まりは、すべて寺の維持管理のため、自分たち(坊さんたち)の生活のため始められたものであったのです。(つまり金儲けのために始めたということです)
今年も初詣はずいぶん賑わっているようですが、寺や神社などでする、おみくじやお札を買うこと、あるいは病気治しや安全祈願などは、すべて寺社維持のための金稼ぎなのです。宗教的意義があるわけではありません。
だから、そういうところにお参りに行ってもご利益がないですし、なくても別によいということで(ないのが普通だという考えで)多くの人が、ただ習慣化して、そのようなことをやっているに過ぎないのです。(あるいは縁起がいいとか悪いとかそれだけの理由です)
しかし、よく考えてみて下さい。そういうところへお参りに行き、何もよいことが起きないということはおかしいと思いませんか?それでは詐欺ではないか、と思わないでしょうか?(だってそうでしょう、金だけとって何一つその恩恵がないというのは、詐欺に等しいのではないですか?)
宗教的に何の意味もないことを、さも意味があるように見せて、人々の弱みに付け込み(病気治しとか、安産できますとか、よい結婚ができますとかいうのは、人の弱みに付け込んでいると思われないでしょうか?そういわれても、実際に病気が治らない人はごまんといますし、よい結婚ができなかった人も、これもごまんといるはずです)物を買わせているのです。これは詐欺といってもおかしくはないのではないでしょうか。
だから、そういうところへどれだけお参りしても、この名古屋で起きている現象は収まらないのです。元々そんなこと宗教的に意味があることではないからです。(まったくの金儲けそれだけだからです)
いましているような、宗教的に意義があるようなことは(墓参りやお寺参り、魔除けとしてお札をはる、などなど)そのほとんどが江戸中期につくられたもので、宗教的意義がまったくないものがほとんどなのです。(この江戸中期の仏教が拡がって、ただ一つよかった点は、庶民に仏教が拡がったというそれだけです)
その現在やっている宗教の教義などが、宗教的に意味がない、なんの効力もない、ということが、名古屋で、このような恐ろしい現象が次々に現れることにより、白日のもとにさらされることになりました。
このような宗教は皆偽の宗教であり、本物の宗教ではなかったのです。だから恐ろしい現象が収まらないのです。
では、本物の宗教とは何か、ということがこれから問われることになります。
その本物の宗教が、これから明らかになっていくのです。(本当にその宗教を実践すれば、何らかの恩恵が必ずある、それこそ本物の宗教です)



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