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1月 02 2011

正月

11:02 AM ブログ

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年どれだけできるかわかりませんが、伝えるべきことは伝えていきたいと思っていますので、またご協力よろしくお願いします。(新年早々いきなりお願いしてます〔笑〕)

今年も多くの人が正月には初詣に行き、どこのお寺も神社もにぎわっているようです。

しかし、普段神も仏もあるものかと無神論を言われている人たちが、初詣に行って一体何に対して祈っているのでしょう?初詣に行っているお寺の坊さんに祈っているのでしょうか?それとも行っているお寺に祈っているのでしょうか?まさか普段からいないと言っている神に祈っているのではないでしょうね、それともただの習慣で行かれているだけなのでしょうか?

習慣で行かれている割には、初詣に行って何を祈られましたかと聞くと「今年は景気がよくなりますように」とか「いい大学に入れますように」とか「株が上がりますように」とか、漠然と祈ってはいるようですが(あまり細かく自分が祈ったことを言うのは恥ずかしいのかもしれませんが)しっかり自分の欲望丸出しの現世利益を祈っています。(こういう祈りをしているだけでも十分恥ずかしいのですが〔笑〕)

このようなことを聞くと習慣で行っているとも思えませんので、多分何かに対して祈っているのでしょう。何に対して祈っているのでしょうか?こんな祈りを寺や坊さんにしてもきいてくれるはずがありませんので、多分初詣に行っている多くの人たちが、普段はないといっている神に対して祈っているのでしょう。

まったくあきれてしまいます。これでは普段は親などいないといっている人が、正月だけは親に金をせびりに行っているようなもので、厚かましいにもほどがあります。

親に対してこんなことをしてもよいことを言われないのに、この世界のすべてを創られた神に対してこのようなことを平気でやっているのですから、普段神などいないと言いながら初詣など行って祈っている人は、大バカ者と言われても仕方がないでしょう。

しかも祈ることといえば、自分(あるいは自分たち)さえよければそれでいいという、自己中の祈りで、自分の心の向上や世の平和などまったくといっていいほど祈りません。こういう祈りをしていて、神に対し恥ずかしいとも思わないのでしょうか?

現在の日本人は、無神論を言いながら初詣など行って、いないといっている神に祈り、また祈り方も間違っているのですから、そんな祈りを神仏がきいてくれるはずがありません。初詣に行って願いがかなったという人は、それはただ単に願いがかなうように努力したからかなったのであって、決して神仏がその願いをきいてくれたわけではありません。

神仏に願いをきいてほしければ“法”を知るしかないのです。

漫画で有名な一休禅師は次のような歌をうたって世の人々を戒めています。

「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

一休禅師は室町時代の禅僧で当時の坊さんとしては異色の人でした。坊さんのくせに酒や女、博打と何でもこいで奇行が目立ちました。しかし、言われていることは的を射たことが多く、当時の文化に大きな影響を与えた傑僧です。

その一休禅師が、街中を歩きながら骸骨を手に持ち、それを振り回しながらよく先ほどの歌をうたっていたそうです。

人生を考えると夢とまぼろしの連続のようなものである。人も一皮向けば皆骸骨である。どんな美人も死ねば白骨になる。早く目を覚ませ、と。

「年をとるほどあの世は近い。骨になる前に目を覚ませ」

正月早々、縁起でもないと思われるかもしれませんが、この一休禅師の言われていることは正しいのです。

周りに年寄りがいれば聞いてみるとよいでしょう「おじいさん(またはあばあさん)のこれまでの人生は長かったですか、それとも短かったですか」と。

すると誰もが「短かった」と答えるでしょう。なかにはアッというまであった、という人もいるかもしれません。

人の人生など八十や九十まで生きようが、たとえ百まで生きたとしてもアッというまであったと皆思うのです。長い人生であったと思う人など一人もいません。であるならば、人生とはまさに一休禅師が言われるように「夢やまぼろし」のようなものでしょう。

その夢のようなアッという間の人生を、金や地位や名誉ばかりほしがって一体何になるのでしょうか。それをほしがるばかりに、怒りや妬みや愚痴ばかりの人生なら夢見が悪いことこの上なしです。

金にせよ地位にせよ名誉にせよ、死んでもっていけるわけではないのです。そして自分自身の肉体さえもです。すべてこの世に置いていかなくてはならないのです。夢のような一瞬の人生に死んでもっていけないものをほしがったり、きれいに磨いてばかりいても仕方がないのです。(どれだけきれいな女性も一皮向けば骸骨です)

死んでも持っていけるものの得になることをして、死んで持っていけるものをしっかり磨くことが大事なことでしょう。死んで持っていけるものとは自分の心だけです。(心といっても別に光の球のようになってしまうのではなく、霊体が備わっていますが、ただ死んでしまうと自分の心の状態がまともに体に出てしまいます。幽霊やお化けといわれるものが皆が皆暗い顔をしているのは、この世に恨みを抱いて死んだ人〔地獄に堕ちている霊〕は当然心も暗いので、そのような顔になるのです。明るいお化けがいないのもそのような理由からです〔笑〕)

二十一世紀は心の世紀といわれ、輪廻転生も医学の世界で認め始められています。近い将来あの世(意識界)も科学で認められるようになるでしょう。

私たちはこの世の生活が終わればあの世で生活し、永遠の転生を繰り返す魂なのです(エネルギー保存の法則)。

であるならば、夢まぼろしのようなこの世しか通用しないものを磨き(顔や体)この世しか通用しないもの(金、地位、名誉など)ばかり求めても意味がないのです。永遠に自分のものである心を磨くことこそ肝要で、その心のためになる徳を積むことこそもっとも大事なことである、ということです。

そのためにはどうすればいいのか、ということをもっと深く考えてもいいのではないでしょうか。

正月早々重い話になってしまいました(笑)。

改めて今年もよろしくお願いします。

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