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9月 26 2014

この世の修行の難しさ

10:59 AM ブログ

カリフォルニアにも少々雨が降っているみたいですね。(ここ一日~二日一部地域で雨が降ったみたいです)

やはり五百年に一度といわれるくらいの(ということは、これまでにないほどの)大干ばつです。ちょっとやそっとの祈りではきかれませんね。とても八月中に雨を降らせることなどできませんでした。

九月に多少の雨が降り、これ以降は(カリフォルニアの天気予報を見ていると)何日か雨が続くところもありそうですので、しばらくしたらカリフォルニアも雨が降りだすんじゃないですか?(分かりませんが)

しかし、今年中はカリフォルニアは雨が降らないといわれていたのに、それが九月に雨が降り、以降も雨が降り出しそうなところもあるんですから、それだけ道をつければ私一人の祈りとしては十分でしょう。

もう私が祈ることもないでしょう。あとはカリフォルニアの皆さんの心次第です。(もう少し祈ってもいいんですが、誰も乗ってこないのでこれくらいにしておきます。日本のこともありますし)

もうちょっと日本で話題になれば、私も祈ってもいいんですが、相変わらずの無関心です。それに、この近辺も、もう朝から思いきりテンパっている会社もあります。(次々に何か起きているようですね)まず日本のことに集中しましょう。(ということは、これまでカリフォルニアにいっていた祈りの分も、その会社を集中して祈れるということになります。覚悟してください)

しかし、テンパろうが怒ろうが、自分たちが悪いから自分たちに悪いことが起きるのです。(因果応報、善因善果、悪因悪果)そんなこと(責任転嫁)をしている暇があるなら反省することです。

昨日も一昨日も書きましたが、自分たちに愛がないから災いが起きるのです。災いが起きるのが嫌なら、これまでの自分たちの行いを反省し、もう少し愛ある行いをされることです。(私は、ただ家の中でパソコンをしているだけなのに、それに怒り、自分たちが私に散々嫌がらせをして、それで自分たちが天罰食らっているだけなのに、何でこれだけパニくっているんでしょうか?意味が分かりません)

そういうことを一切せず、パニくって怒りたくっているのは見苦しいの一語につきます。

反省が、できないならできないで仕方ないですが、では、その時を静かに待ったらどうでしょう。常軌を逸したような騒ぎ方は哀れというしかありません。(こんなこと書く予定なかったんですが、前の会社があまりに異常な騒ぎ方をしますんでね。〔そうすると周りもつられて騒ぎ出しますので〕無視するわけにもいかないんで、ついつい書いてしまいました。本当に迷惑です。自分たちが悪いのに)

この世の修行に甘えは許されません。悪いことをした人は、その報いを自ら受けるのです。

愛のない人たちの話ばかりでもいけませんが、家庭内の愛の大事さを書いていた昨日、歌手であった夫婦の、夫の方が自殺したというニュースが流れていました。

こういう時に、こういうことを書くのは傷口に塩をすり込むことになりますが、しかし、先ほども書きましたが、この世の修行はそれほど厳しいのです。こういう時に同情していたわってくれる人など、周りにいくらでもいるでしょう。

だから私は、あえてきついことを書きますが、自分の夫が死ぬほど悩んでいるのに、そのことにまるで気づかない妻など、全く夫に対する愛がなかったといっても過言ではないのです。

「夫を愛していた」と、その妻はいうのかもしれませんが、本当に夫を愛していたのであれば、夫の何気ない仕草にも夫の死ぬほどの悩みは現れます。

本当に夫を愛していたのなら、その夫の心の中の悩みを妻が気づかないはずがないのです。

夫が、死ぬほどの悩みを心に抱いていたのであれば、それは昨日今日のことではないでしょう。もうずいぶん前から悩んでいたと思います。その死ぬほどの悩みを一緒にいる妻がまるで気づかないのです。

夫はどれほど悲しかったことでしょう。どれほど寂しかったことでしょう。

そのような夫の心さえ、その妻は分からなかったのです。

どれだけ自殺した夫は妻に「お前は俺のことを何も分かっていない」と叫びたかったことでしょう。「もう少し俺のことを分かってくれ」と頼みたかったことでしょう。しかし、夫は、そのようなことを一切妻にいうことなくこの世を去ったのです。

遺書が残されているということですが、その遺書も、どこまで本心が書かれてあるか分かりません。そのような妻への思いを夫は死んでもいえないからです。

それこそ妻への愛が、死ぬ間際に、そんな恨みのようなことを妻にいうことを拒むからです。それが男の心だからです。

私は、その夫の心を思うといたたまれなくなります。もし、妻がもう少し夫の心を理解してくれていたのであれば、この夫は自殺することはなかったからです。

もう少し妻の愛が深ければ、この夫は幸せな結婚生活を送れたからです。

こういう愚痴のようなことを、死にゆく夫が妻にいえるわけがありません。だから私が代わりにいいました。

この私の言葉で妻が反省してくれるなら、その夫が地獄に堕ちても(自殺した人は例外なく地獄に堕ちます。それこそどのような言い訳も通用しないのです。自分にとって一番悪いことを自分にしたからです)早く天上界に上がることが出来るからです。

だからあえて書いたのです。

このように、この世の修行とはそれだけ厳しいものであり、また誰に対しても公平なものであるのです。

愛を出せば、その分自分にも愛が返ってきて、幸せな人生を送ることが出来ますが、その愛が中途半端なものであってはいけないし(それだと不幸になります。愛を出すなら心から本物の愛を出さないといけないのです)愛を出さずに怒りばかり出しているなら、それは不幸な人生しか送れないということです。

幸せな人生を送っている人は、自ら幸せになることを実践しているから、幸せになっているのであり、不幸な人生を送っている人は、自ら不幸になることを実践しているから、不幸になっているのです。

誰の責任でもなく、すべてそれは自分の責任であり、起きていることに言い逃れは出来ないのです。

今のあなたの人生は幸せですか?それとも不幸なのですか?

不幸な人生を送っている人は、これまでの心と行いを少し反省されてはどうでしょう。そうすれば人生も変わってくるからです。

しかし、本当に不幸な人とは、そのような反省を全くできない人なのです。

2コメント

2 コメント to “この世の修行の難しさ”

  1. ウナッシー2014/09/26 at 12:42 PM

    園頭先生の言葉に「本来悪はないのであって悪を想うその想念が現象として現れるのである」と有りましたが、両親への感謝を深めていったときほんの少しではありますが、その事を心で納得する事が出来ました。日々の生活を大事に過ごし深めていこうと思っています。また、私の周囲に大きな変化が起きています。再婚すると告白された身内はいるし会社ではうつ病の社員を渡されるわで、次々と変わります。全ては自分に無関係でないことはあり得ないのであって真摯に受け止めて進んで参ります。

  2. gtskokor2014/09/26 at 1:26 PM

    法を勉強されているのです。これからいろいろ試されることも起きてくるでしょう。
    その試験に合格して行けば、ゆくゆくは悟りを開き、法を説いて奇跡を次々に起こす、そういう人になれるのです。(釈尊やキリスト、高橋先生や園頭先生のような人にです)
    私たちは、皆そのような人にならなければいけません。
    そのための勉強です。どんな困難なことが現れても喜んでそれを行ってください。
    自分がより成長するチャンスだからです。

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