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12月 05 2014

行即光

11:06 AM ブログ

よく考えたら今年もあと一ヶ月です。(というかもう一ヶ月をきっています)

それにしても早いですね。まだ年が明けたばかりのような気がしますがすでに師走です。(ちょっと極端ですね〔笑〕)こう考えると時間などあってないようなもので、本当にあっという間です。(気づかぬうちに過ぎてしまいます)

やるべきことは、すぐにでも行動を起こさないと、気がついたら年を取ってやりたくてもできないということにもなりかねません。

よいことはすぐにでもやった方がいいのです。(行即光ですから)

いまアメリカでは大規模なデモが行われています。黒人が、白人の警察官の過剰とも思われる取り締まりの行為で命を落としたにもかかわらず、その過剰な取り締まりを行った白人の警察官は罪にも問われない、そんな出来事が重なっているからです。

明らかに過剰な取り締まりをして(ビデオまで残っていますので)取り締まりをされた人が亡くなっているのに、その過剰な取り締まりをした警察官が全く罪にも問われないなど、日本では考えられないことです。

しかし、その日本で考えられないことがアメリカでは堂々と行われているのです。

これが反対であるなら(黒人の警察官が白人を過剰な取り締まりで殺してしまったら)すぐにでも起訴され罪に問われるでしょう。つまりアメリカは白人か黒人かで差別をしているのです。

それも中立であらねばならない裁判でです。

実際は、裁判をする前の大陪審でそのような判断が下されたんですが、どっちみち起訴をされていたとしても同じだったでしょう。(この白人警察官は無罪になったと思います)

アメリカは陪審制度なのですから(日本の裁判員制度と同じようなものです。多少違いますが)また民間人が裁くのです。では、陪審員に白人が多ければ無罪になる確率は高くなります。

つまりアメリカでは起訴をされようがされまいが、どっちに転んでも公平に裁かれることはないということです。こんな日本では、どう見ても警察官も悪いだろうと思われる事件でもです。

陪審制度などという制度がおかしいからです。こういう事件を見ても分かります。いかに日本でもやっている裁判員制度がよくないのかということがです。(いろいろ問題が起きていますが)

結局司法は、司法の仕事をする使命を持って生まれてきた人たちがいますので、その人たちに任せないといけないのです。そこにそのような使命が全くない人が入ってしまうと、そういう使命のある人たちの使命を奪ってしまうことにもなり、また公平な判断もできないのです。

出来るわけがありません。元々司法の使命がない人が司法の仕事をするわけですから、出来ないのが当たり前のなのです。(例えば、医療の世界に素人が口を出すようなものです。めちゃくちゃな話です)

その司法に問題があるなら、その司法の中で解決すべきなのであって、司法の仕事に全くの素人などいれてしまってはいけないのです。

何か司法に問題があるなら、それは司法の中で解決し(もちろん第三者を入れてやったとしてもそれは問題ありません。そのような順序で解決したということなのですから)調和して公正な裁判をしていかなければいけないのです。

そういう使命(司法の中を調和する)も、司法をやる仕事をしに出てきた人たちにはあるからです。

だから裁判員制度など間違っているのです。やはり裁判は裁判をする使命を持った人たち(弁護士や検察官や裁判官など)がしなければいけないことであり、そうしないと公正な裁判ができないのです。(公正な裁判をするかしないか、それがその人たちの心の修行だからです)

その極端な例がアメリカでしょう。使命がある人が使命を果たさない、すると今回のように犯罪者を平気で無罪にしてしまうということも起きるのです。(前にも有名なスポーツ選手が、妻を殺したにもかかわらず無罪になったことがありました。その有名なスポーツ選手のファンが陪審員〔裁判員〕の中にいたからです)

アメリカだけを例にとりましたが、このような差別や不公平なことは世界中で起きていることなのです。

つまり、世界でいわれている自由やら平等やらいっていることは、現実無視のただの掛け声にすぎないということです。実際は世界中で不自由で不平等だらけなのです。

こういう世界を見ていれば分かります。世界にならうということがいかにバカげたことであるかがです。

世界がやっているから日本もやらなければいけない、などということはナンセンスなのです。

そのことが正しいか、正しくないか、その一点なのです。

あの国がこういうことをしているが、それが正しいからそうしないといけない、というのなら分かりますが、正しいかどうかは一切いわず、どこどこの国がこうしているのだから日本もそうしろでは、それが正しくなければ、そんなことを日本でやれば日本がおかしくなります。

何が正しく、何が正しくないのか、その判断がしっかりできなければいけないということです。

その判断の基準が、釈尊やキリストが説かれた神理であり私が説いている法です。

その法が説かれているところには奇跡が起こり(正しさの証明としてです)説かれていないところには災いが起こります。(間違いの証明としてです。だから、日本は元より世界中で異常気象が起きているのです。世界で法が説かれていないからです。つまり世界中で間違ったことがいわれ行われているからです)

これからは、正しい基準を知らないと災いばかりが起きてきます。

そのような時代となっているからです。

正法の世が深まれば深まるほど、そのような善と悪の見分けがつきやすい現象(奇跡か災い)が次々に起きてきます。つまりこれから先は、このような現象がもっと激しく起こり出すということです。

だから、法を知ったら即行わないといけないのです。(先ほどもいいましたが行即光です)

時間などあっという間にすぎていきます。法の勉強をすぐにでも始められてはいかがでしょうか。

2コメント

2 コメント to “行即光”

  1. ウナッシー2014/12/05 at 12:35 PM

    先日母の買い物に付き添う道中で園頭先生の講話をかけていったわけですが、今週は通勤時にも聴いています。そしたら新たに心に響いた言葉が有りました。
    不思議なものですね、幾度も聴いている内容であったにも関わらずまたそのような経験をしました。ちなみに内容は、人間の原罪であるアダムとイヴに関する講話の中で「人間が人間を産むのではなく、命が命を産むのである」という言葉です。
    私達は命を与えられているのであり命を持って生かされていることを知り、そうであるが故に人間として反省すべきところは反省するそのことが心の成長につながることのではないだろうか、という想いに至りました。
    それ以来これまで以上に神を一とした感謝、反省の実践を心掛けております。

  2. gtskokor2014/12/05 at 1:31 PM

    如来の話を聞いていると、その時の心のレベルに合わせて、いろいろな気づきが与えられます。(心が高まれば高まるほど、より高い気づきが与えられます)
    だから如来の話は何度聞かれても勉強になるのです。(心のうちより導いてくださるからです)

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