12月 17 2014
善の心
北海道は数年に一度の凄い天気(暴風雪)になっているようですね。(過去最強クラスの爆弾低気圧の影響ですが…よくそんなのが来ます)
その爆弾低気圧のせいで、今日は昨日以上の天気になるようですが、今日、明日は北海道だけではなく、全国的に強い風と雪に注意が必要だそうです。
これだけの荒れた天気になるのです。多くの人がよほど心を変えないと、もう日本はやばいかもしれません。
しかし、いつまでたっても二十世紀(末法)の心のままで、心を少しも変えようとしない人が多いようです。心を変えれば昨日動画を公開しましたが、あのように鳥や魚がたくさん寄ってくるようにもなります。(少々うるさいのが玉に瑕ですが)
そんな、動物がたくさん寄って来る愛ある人が増えれば、このような大荒れの天気になることもないのです。(動物の不思議⑧と⑨もありますが、二~三日後にまた公開します。あまり一変に公開するのもなんですから)
昨日、悪は思ってもいけないということを書きましたが、では善の心はどうなのでしょう。悪の心のことを書いたのですから、善の心のことも書いておきましょう。
悪は思ってもいけませんが(思うだけで悪を行ったことになりますが)善は違うのです。
善は思うだけではいけないのです。善は行わないと本当に善を行ったことにはならないのです。
悪は思ってもいけないが、善は思うだけではいけない、行わなければ意味がない、このような違いが現としてあるのであり、これがこの世の修行の難しいところなのです。
悪と善ではなぜそのような違いが出てくるのか?それは元々、悪と善では性質が異なるからです。
善とは元から人に与えられているものですが、悪は後天的なもので人が勝手につくりだしたものなのです。その違いが、善と悪の心と行いの違いなのです。
神の心に悪はありません。したがって私たちは、その善なる神につくられた神の子なのですから、すべて善なのですが、この世の修行の中で神の心から離れ、神に反する心を持つ人が現れた、その神に反する心が悪という心なのです。
そのような(神に従おうと従うまいと)自由な心を神は人に与えられたからです。
だから神が悪をつくったわけではないのであって、悪とは、人がこの世の修行の過程で(怒りや愚痴やねたみや、足ることを知らない欲望などの心を持つことにより)勝手につくりだしてしまったものなのです。
だから、元々、人に備わっている善は当然行わなければいけないし、悪は人が後から勝手につくりだしたものなのですから、それは当然思ってもいけないのです。
釈尊が他力本願は間違いである、といわれているのは、こういうことを他力の宗教は知らないからです。
他力の宗教は、平和になりますようにという思いで、お経を上げたり、祈ったりはしますが、そのようなことをするだけで、それで世の中が平和になると思っています。
しかし、それはただ善を思っているだけで、善を行っているわけではありません。善は行わないと意味がないのです。
では、そのようなことは善でも何でもないということになります。善の行いがないからです。
他力の人たちは、そのような気持ち(世の中が平和になりますように)でお経を上げること、または祈ることが善の行いであると思っています。しかし、それは行いではなくただの思いでしかないのであって、そのような祈りをした後、善の行為をして初めて善をなしたことになるのです。(私も祈っているだけではありません。このようなブログを書いて法を世に拡めています。このような行いがあって初めて善行というのです)
お経や祈りが、ただの思いでしかないということは、少し考えてもらえれば分かるはずです。
例えば、いま中国などで問題になっている公害などそうですが、あの公害は、お経を上げれば無くなるのでしょうか?神に祈れば消えるのでしょうか?
どれだけお経を上げても、神に祈ってもあの公害はなくなりません。
あの公害を無くすには、公害を出している会社を突き止めて、その公害を出さないようにしてもらうしか、あの公害をなくす方法はないのです。
つまり、そのような行為が伴って初めて祈りも生きてくるのであって、ただ祈っているだけでは公害はなくならないのです。そのような思い(祈り)と行いがそろって初めて奇跡(他力)が生じるのです。
絶対自力のその先に他力があるのであって、他力の宗教は、最初から最後まで他力でしかなく(お経を上げたり祈っているだけ)自力(公害を出さないようにしてもらう努力)がないから釈尊は他力本願は間違いであるといわれたのです。
話が少しそれましたが、このような例からも分かります通り、善は思うだけではいけないのであり、行わなければ意味がないのです。
だからこのブログを善の心という題にしましたが、それは善行(善を思い行う)という意味であり、そのような(善を行う)人が増えれば、昨日から続いている大荒れの天気(名古屋も今日はずいぶん風が強いんですが)になることはありません。
そのような善(愛、慈悲、調和の心と行い)なる心を少し待たれてはいかがでしょうか。
それが自分だけでなく、多くの人を救うことにもなるからです。



人目の訪問者です。

今日の荒れた天候とは違い、私の心は過去に経験のない晴れやかな状態です。
それは、会社の中で奇跡的な事があって居心地が良くなったからです。一人の気掛かりな人を感謝できるようになった事がそうさせたのです。
仕事の最中にその人に会うと、いつも心がざわめき意識しないようにと思えば思うほどざわつくのでした。この方はご意見番と呼ばれてる人で、頭は良く知識もあり私より仕事においてははるかに上級者と思える方です。でも先日いつものように会うと心がざわつき始めたときに「これはいけない神を一としていかなければ」と思ったらスッと心のざわつきが消えたのでした。その後ふと心に浮かんだのは「この方は私に神を思い起こさせる方」ということでした。
会社で仕事をしていると、やれ納期だ品質だ手順だ等々現実的なことを処理していかなければならないもなのです。
その中でいつもこの方と会うときに心がざわついていたことで、自分の心を見ていたことに気が付きました。これを反省したのでした。
今日はお会いした時、心の中で感謝をしきってから神を思うことをしました。
感謝できることの有り難きこと、何故もっと早くに気が付かなかったのかと思いました。
苦手な人に感謝できるようになると、また一つ自分のレベルが上がります。頑張ってください。