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6月 30 2009

男と女

4:49 PM ブログ

前にこのブログに書きましたが、国際グラフという雑誌の7月号に、私と元巨人でピッチ
ャーをされていた角さんとの対談が載るのですが、その雑誌が今日届きました。
中を見てみると、色々な経営者の方が紹介されているのですが、ずいぶん女性の経営
者の方もいるのだなと思いました。

昨今はジェンダーフリーだ、男女同権だ、男女平等だ、などと騒がれて女性も強くなった
といわれますが、神は、男と女を姿かたちや性格を違うようにつくられています。最近は
姿やかたちや性格も男か女か分からないような人も増えていますが、男女同権や男女
平等なら、なぜ神は男女を同じようにつくられなかったのでしょうか?同権や平等なら男
ばかりとか女ばかりとか、あるいは男女両性の人間でもつくられればよかったのに、な
ぜ神は、人を男と女、別々につくられたのでしょう。
最近は女性が強くなったといわれますが、釈尊が女の道について話されたことがありま
す。釈尊が語った女の道と最近の女性とどう違うか、みてみましょう。
それはぺシャキヤという大富豪の娘で、釈迦教団にミガラー・マター(鹿母精舎)という
精舎を寄進された方です。
このぺシャキヤが、ある時釈尊に女の道について質問されます。釈尊は次のように答え
られました。
園頭広周著「仏陀をめぐる女性たち」より抜粋

<ぺシャキヤよ、そなたは女でありながら、多くの使用人に慈悲の心で接している。
お互いに心が通じ合い、むさぼることなく、ぐちることなく、正しく仕事をしているようだ。
多くの女性の中には、何事にもすぐ腹を立て、気まぐれで足ることを知らない欲深い者であ
っても、困った人、苦しんでいる人々に対しては、施しをしなければならないということを知っ
ている者がいる。
また、丸く豊かで、怒ることもなく、常に心を正し、一切に足ることを知ってはいるが、苦しい
者、悩める者を見てもいささかの慈悲の心も起こさずに、人々に与えない者もいる。
そうかと思うと、心が豊かで広い心を持ち、心の中に怒りもなく、足ることを知って欲望もな
く、そうして他人の幸福を喜び、苦しい人、困った人に慈悲の心をもって奉仕している者もあ
る。
この三者のうち、誰が正法にかなった生き方としているかというと、それは最後の女性であ
る。法を心の糧として生活している女性は、よく儀我を捨て、一切の執着から離れ、安らぎ
の心の中に住んでいる。
男女は平等であっても、その働きは剛と柔であり、その調和が大事である。
女は家庭にあって、家庭を光明によって満たす大事な役割を果たさなくてはならない。
男女は平等であるといっても、肉体的には平等ではない。
女性は結婚して他家にゆけば、やがて子供が生まれる。妻は家にあって子供を守り育てて
ゆく。良い子を育てるには、夫婦の信頼と対話が一番大事である。互いに相助け、相譲り、心
の豊かな健康な子供を育てていかなければならない。
このような家庭が多くなればなるほど、他に調和が促進されていく。
嫁に行けばそこには夫の両親がいる。孝養をつくさなければならない。どんな理由があって
も、自分の心の中に怒りや愚痴や恨みの種を蒔くことなく、忍辱の二字を心得て、いつも明る
く、豊かな生活をするようにすることである。
男は外に仕事に出かけなけらばならない。家庭を明るくするかどうかは、女の心がけ一つで
ある。
心の中の苦悩というものは、人がつくるのではない。自分がつくりだすものである。
自分に都合が悪いからといって、自分の心の中に怒りやねたみ、恨みの心を持つと、その心
の渦の中に自分が巻き込まれてしまって、やがて調和を忘れ、ついには争いとなり、破壊へ
とつながっていく。
それゆえ、家庭に対立があってはならない。女はよく夫の仕事を理解し、それを助け、そうし
て自らも知識見聞を広め、教養を高めてゆくようにするのが女の道である。>

このぺシャキヤという女性は、今でいうキャリアウーマンでした。聡明で男のように積極的に
ものを考え、計画し実行力もあり、容姿も知性と気品にあふれていました。
これだけ仕事ができて大富豪ということであるなら、大抵はわがままになり、男を見下す心が
でてきますが、ぺシャキヤはいつも冷静で、大勢の召使たちにもやさしく、物静かで控えめな
態度には、いっぱいの敬虔さと謙虚さがあふれていました。
それほどの女性でも、なお釈尊に正しい女の在り方をきき、心の向上を目指していました。
当時の女性の純粋さレベルの高さがうかがえます。

現代の女性は、仕事ができる人はたくさんいますが、ぺシャキヤのような女性や釈尊がいわ
れたような女性が、はたしてどれくらいいるのでしょう?それほど私は、多くの女性と付き合っ
たことがありませんので分かりませんが、最近は癒し系の女性より、癒し系の男性の方が多
いように感じます。(それもどうかと思いますが)

男女は人の生命ということに関して言えば、たしかに平等です。しかし、釈尊の言葉にありま
すように、肉体的には平等にできていません。そのようにつくられているのであれば、やはり、
男には男の役割があり、女には女の役割があります。それを無視した足して二で割ったよう
な平等論はやはりおかしいのではないでしょうか。
男は男で生れた以上、男としてやることがあるでしょうし、女は女として生まれた以上女として
やることがあります。それをごちゃまぜにしてしまった所に、今日の混乱があると思います。
仏陀の法には、男には男としての在り方、女には女としての在り方が述べられています。
古い新しいではなく、何が正しいのか?それを知って下さい。





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