>>ブログトップへ

2月 13 2015

なぜ、神を一としないといけないのか

11:23 AM ブログ

最近の私は外に出て行くと、動画を撮るよりも辻説法に力を入れているんですが、その甲斐があってか(?)だいぶ雰囲気が変わってきましたね。(動画をあんまり撮ってもお金がないから公開できないし…最近芸能人のブログなんか見ると、よく動画を貼り付けてありますが、あれ自分でやってるんでしょうか?前に、ユーチューブのやり方を教えてもらいましたが、全然分かりませんでした。〔やる気がないだけかもしれませんが〕自分でやれれば楽ですけどね)

前よりは嫌がらせも減りましたよね。でかい音たてるところも減ったし、車のブシュブシュもかなり減りました。(怒っている人は怒っていますが)

ソロソロ理解していただけましたかね。悪いのは自分であるということをです。

もう理解した方がいいでしょう。名古屋はこれだけ多くの病人が出ているのです。これだけ神の業が集中して現れるなど、一体いつ以来なのか分からないほどです。(歴史的大事件ですね。これは)

これほどの神の業が現れているのに、それでも神を理解しようとないなど、それではあまりに傲慢でしょう。

もう謙虚になって神に頭を下げられてはどうでしょう。その方がよほど救われるからです。

恐ろしい現象が次々に現れているところもあるようです。そういうところが、そのままのやり方をしていて、それでその現象が収まると思いますか?

どれだけ怒ろうが、無視しようが、その現象は止まりません。神に頭を下げるしか(謙虚に自分が悪かったと反省するしか)その恐ろしい現象を止める手立てはないのです。

最近、私が辻説法でよくいっていますが、私の祈りは天まで動かしますが、そういう祈りが出来る人が他にいるのでしょうか?正しい信仰をしているから、祈りがきかれるのであって、では、これほどの現象が現れている名古屋で、正しい信仰を知ろうとしなくて本当によいのでしょうか。

私が人を次々に病気にさせているというなら、なぜ、そんな恐ろしい者に鳥や魚が集まってくるのでしょう?

この名古屋で起きている恐ろしい現象の原因は(私のせいではなく)他のところにあるのではないでしょうか。

私がなぜ、神を一としなければいけない、神をもっと思わなければいけない、というのかお分かりでしょうか?

私たち人間を考えてもらうだけでも、神の偉大さ有難さはよく分かるのです。

例えば、私たち人間は心臓を自分で勝手に動かしたり、止めたりすることはできません。心臓は私たちの意志に関わらず動いています。心臓が止まれば死ぬのです。では、この心臓が動いているのは誰のお蔭ですか?

人間の体には多くの血液が流れていますが、その血液が流れる血管のどれか一つでも詰まれば、それで人は死んでしまいます。この体のどれだけ細い血管まで詰まらず、血液がスムーズに流れているのは誰のお蔭でしょう。

そのような体の中のことだけではなく、人間の顔も性格も、もっといえば、その出す声までもすべて違うようにつくられているのは誰のお蔭ですか?

人間は、母親のお腹の中で十月十日すると生まれてきますが、このような仕組みをつくられたのは誰なのですか?

生まれてくることばかりではありません。死ぬということでもそうでしょう。人間に死ぬということがなければ、もし、ある人が不幸な環境に生まれたら、その人は永遠に不幸な環境から抜け出せないかもしれないのです。

では、その人は永遠に不幸ということになってしまいますが、死があるなら時がたてば、その不幸な環境から抜け出すことが出来ます。

その生と死ということをつくってくれたのは誰なのでしょうか?

そのような人間の体のことだけではなく、空気や水、太陽の光さえ、私たちがつくったわけではないのであって、すべて与えられているものなのです。

もっというなら、この地球から大宇宙に至るまで、私たちは何一つ自分でつくった物などないのです。

すべて与えられているものなのです。

そのようなすべてのものを与えてくれたのは一体誰なのでしょうか?

それはすべて神なのです。

人間のことだけではなく、この世のすべて人間に必要なものを、現在においてもです。与え続けてくださっているのが神なのであり、だから私は、神を一としなければいけない、常に神を思わなければいけないといっているのです。

これは少し深く考えるなら分かることでしょう。先ほど書いたことを考えてみてください。

心臓が定期的に動いているのも奇跡なら、人間の体に流れる血液や血管も奇跡です。(人の血管の長さは地球二周半ほどもあり、その地球二周半もの長さがある体中の血管を血液はわずか一分で一巡りし、その間に酸素や栄養、水分などを各細胞に運び、二酸化炭素や老廃物を尿などから排出させるのです。しかも血管の太さは、細い毛細血管など0.0008ミリしかないといわれています。こんな極細の血管まで詰まらずスムーズに血液が流れているのです。よく考えてみれば、人間の体の中は奇跡の連続なのです)

人間の顔や性格、その声までも、この地球上には七十億もの人々が暮らしていますが、このどれ一つとっても同じ人間はいないのです。これは過去をさかのぼっても同じです。(昔の人の写真など見てもらえば分かりますが)一人として同じ顔をした人はいないのです。(性格や声までははっきり分かりませんが)

もうどれだけ多くの人が、この地球上に現れたか分かりませんが、その誰一人として同じ顔の人はいないのです。(双子でもどこか顔は違っています)これも奇跡といわずして何というのでしょうか。

人が十月十日して生まれてくるのも奇跡なら、人が死ぬのも奇跡なのです。(永遠の生命があればいいという人もありますが、先ほども書きましたが、この世で永遠の生命などあれば、不幸な環境に生まれて、そこから抜け出す術がない人は、永遠に不幸な環境に置かれたままということになります。神が人間の死もつくられたから、どれだけひどい環境に置かれても抜け出すことが出来るのです。そうであるなら、生に感謝するだけではなく死にも感謝しないといけないのです)

空気や水、太陽の光など、人間に必要なものが全部整えられているということも奇跡でしょう。

この地球も、大宇宙の星々も、それだけ無限の星々があること自体すでに奇跡なのです。

このような奇跡を次々に現されているのが神なのであり、だから私は神を一としないといけない、神をもっと思わなければいけないというのです。

神をどれだけ一にしても、神をどれだけ思っても、それでもまだ私たちは、神に対する感謝が足りないからです。現在においても神が我々人間に対し、どれだけの慈悲と愛を与えてくださっているのか、理解出来ないからです。

だから、私はくどいくらい神のことをいうのです。

神のことは、私がどれだけここに書いても書ききれないのです。それだけ無限の愛を(私たち人間だけでなく)すべてのものに神は与えてくださっているからです。

私たちが神のことを知っているなど、ほんの一部のことなのです。

その神の心を少しも理解しようとしないのです。

この法(神の心)を理解しようとしない人の罪を、少しはお分かりいただけるでしょうか。

2コメント

2 コメント to “なぜ、神を一としないといけないのか”

  1. ウナッシー2015/02/13 at 12:33 PM

    私の周りで末期がんを宣告された方がいます。
    この方の現在は知りませんが、以前は園頭先生の講演会で見かけた方です。
    明日、お見舞いに行って来ることにします。面会はどのようになるのか
    行って会ってみなければ分かりませんが、この方に神の御慈悲があることの祈り心をしっかり持って行こうと思ってます。

  2. gtskokor2015/02/13 at 1:36 PM

    そうですか、それはお気の毒です。
    その方が法をよく理解されていれば、そのようなことにはならなかったと思いますが、もう祈ってあげるしかないでしょう。
    私も少し祈っておきます。

Trackback URI | Comments RSS

コメント記入

Spam Protection by WP-SpamFree


あなたは人目の訪問者です。