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4月 17 2015

この世の修行

11:03 AM ブログ

昨日の続きですが、結局、地位や名誉や金を得ることで増上慢になってしまっては意味がないのであって、高橋先生がよくいわれていましたが「実るほど頭が下がる稲穂かな」は神理なのです。

少し偉くなったり、有名になったり、お金がたくさん入って来たりすると、とたんに人柄が変わってしまう人がいますが、変わるのは別にかまいません。

むしろ変わらないといけないでしょう。(立場が変わっているんですから)

しかし、その変わり方が、天狗になったり、増上慢になったりするのは論外であり(神の子である人間であるならばです)それだけ偉く有名になりお金も入ってきたのであれば、それだけ周りにお世話になった人が増えたのですから(一人でそんな風になれるわけがありません。周りの協力があって、はじめてそのような立場になれたのです)より謙虚になり、お世話になった周りの人たちにお返しが出来る、そのような徳のある人とならなければいけないのです。(それが神の子である人間の当たり前の姿だからです)

何でも一生懸命やるのはいいのですが、やりすぎてしまって執着につながってしまっては、それもまたいけないのであり、すべてにおいて中道は大事なことなのです。

そのような立場がいいからと、もう他の勉強をしなければいけない時期に来ているのに、それでもまだ同じ立場にとどまっているのは、それは執着なのであって、そのような人は自分だけを見るのではなく、周りも見渡して周りのことも考え、そうして自分のしなければいけない心の勉強をしないといけないのです。

そのような現在の立場など、所詮は自分が決めてきた心の勉強の一つの手段にしかすぎないからです。

遊びも、心を楽にするような気分転換ならいいのですが、人生や仕事から逃げたいための自己逃避のような遊びなら、それはマイナスにしかならないのであって、また仕事より遊びと遊びを優先するようなら(遊びはどれだけやっても遊びでしかないからです。心の勉強にはならないからです)それは本末転倒であり、遊びはあくまで気分転換程度にとどめておかないといけないのです。

それが一番心にいいからです。(だからゲームのやりすぎとか、ディズニーランドみたいなところにいってばかりいるのもよくないということです)

外見などもそうですが(いいか悪いか知りませんが)そのような外見で心の勉強をしてくると自分で決めて生まれて来ているのです。(天上界にいた時は、みなイケメンであり美人であるからです)

そうであるなら、その外見に偏見を持つべきではないのであって、どんな外見であろうと、その外見に感謝し生活して行けばいいのであって、人の外見をねたんだりひがんだりするのは愚の骨頂なのであり、その外見で自分にしかできない心の勉強があるのですから、そのオンリーワンの外見に感謝すべきなのです。(だから安易に整形などするのは間違いなのです。化粧をするとか、プロポーションをよくするため努力するとかは別に悪くはありませんが、それでも女性がそれをするのはよいとして、男性があまり外見にこだわってしまうと〔芸能人などは別でしょうが〕自分のやるべき仕事がおろそかになってしまいます。男はほどほどでよいのです)

そのような立場にせよ、外見にせよ、私たちは何万回も、何十万回も、何百万回も輪廻転生を繰り返しているのです。

その自分の体験を知るのであれば、そういうことを気にして不平不満をいうこと自体、ナンセンスであり(私たちは、いろいろな立場や外見ですでに何度も生まれているからです。あの鎌倉幕府をつくった源頼朝が今生は百姓に生まれたり、江戸幕府をつくった徳川家康が、今生は俳優として生まれたりしていることでもその事実が分かります)今生生まれた、その立場や外見に感謝して生活していくのであれば、よい心の勉強が出来るのです。

そのような立場にせよ、外見にせよ、今生ただ一回限りのことであり、そのようなことに囚われていることがすでに間違いなのであり、そのようなオンリーワンの立場に感謝して、自分が出来ることを精一杯努力して、周りに愛と慈悲を示すのであれば、その人の人生は成功であったといえるのです。(だから〔何かをなしたという〕結果ではなく、そのように努力する過程が大事であると何度もいっているのです。結果が出る、出ないは、その人の今生の人生で何をするかで違ってくるからです)

私たち一人一人の人生とはこのようなもので、すべての人が生まれてきた目的と使命は違っています。

今現在、有名な人は、その有名な人の立場で、会社の社長である人は社長の立場で、社員の人は社員の立場で、また医者である人は医者の立場で、それぞれの心の勉強をするための努力をすればいいのであって、人のことをうらやましがる必要も、とやかくいう必要もないということです。

自分には自分にしか出来ない心の修行があるのですから、それに誇りを持って感謝して、自分の立場で出来ることを精一杯行えばいいのです。

それが自分の心の修行であるからです。

だから、その心の修行を行うのに、怒りやねたみやひがみの心は不要です。そのような心を持てば持つだけ、心の修行のじゃまになるからです。

だから、そのような心ばかり持っている人は、心の修行がほとんど進んでいないということになりますが、そのような人が多いように感じます。(この辺りは特にですが。〔苦笑〕)

せっかくこの世に生まれてきたのです。この世の修行はとても貴重な体験なのです。そうであるなら、そのような心は出来るだけ持たない方がいいでしょう。その方がよほど自分の修行になるからです。

しかし、こういうことが分かるのも、法が日本にあるお蔭です。

それを考えれば、自分の立場に感謝することは当然のことですが、その法があることに感謝するのはもっと当然のことでしょう。

その点でいえば、その現在の日本で唯一法を説いている私に、このブログを読んでいる人は、あまりに感謝が足りないといえるのではないでしょうか。(感謝どころか、読みながら怒っている人もいるくらいですから)

私が正しいことを説いているという証明は(鳥や魚が寄ってくるという)釈尊やキリストと同じ奇跡が起きていることでも分かりますが、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きているということは、少なくともキリスト以降、この二千年の間は、このような奇跡が起きる人がいなかったということになります。

ということは、キリストと同じ奇跡が起きる者が、二千年ぶりにこの世に現れたということになりますが、そのような人に感謝しなくてよろしいのですか?

二千年ぶりに、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きる者がこの世に現れたというのに、名古屋の人など、その者に感謝どころか嫌がらせを繰り返しているのです。それでは名古屋にこれだけの天罰が下るのも分かる気がします。

本当にそんな態度を続けていてよいのでしょうか?

もしかしたら名古屋の人たちは、大変な間違いをしているのかもしれません。

(名古屋だけではなく、このブログをずっと見ているのに、少しも布施しようとしない人たちも同じでしょう。そういう者に、そのようなせこい態度を続けていて本当によいのでしょうか?〔苦笑〕)

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