4月 18 2015
秘めた力
昨日はずいぶんブシュブシュする人がいました。(元気なさそうにです。〔苦笑〕)
昨日のようなブログを書くと、すぐそれに反応して、そのようなことをしてくる人がいますが、いつまで同じことを続けているのでしょう。
それでは名古屋の災いも止まらないでしょう。
ねたみやひがみから、悔しがってそのようなことをしているのかもしれませんが、私は何一つ悪いことはしていません。(むしろよいことばかりしています)
何も悪いことをしていない者に、八つ当たり的な嫌がらせを一方的にしているのです。何度もいいますが、その罪は重いでしょう。
すでに、恐ろしい現象が止まらなくなったところもあるようですが、その犯した罪はいずれ自分に返ってきます。その覚悟だけはしておいた方がいいでしょう。(起きなきゃ分からない人に何をいっても無駄でしょうが)
そのような人たちばかりでなく、名古屋で起きている悪いことの責任を、全部私のせいにしている人もいますが、そのようなことを私がしているという証拠は一つもないのです。
証拠もないのに、人の噂だけを信じて私に嫌がらせをし続けているのです。本当の悪人は一体どちらなのでしょうか?
どう考えても、がせねたを信じて人に嫌がらせをしている人の方が悪いと思いますが、それでも私が悪いという人は、では何で私に、キリストや釈尊と同じ奇跡が起きているのでしょう。
それを聞いても答えてくれる人はいないでしょうが、これこそ私が善人である何よりの証拠であり、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きている者が、悪い人であるはずがないのです。
もう自分たちの業が現れる時代となったのです。災いが現れている人は、自分が反省する以外、救われる道はないのです。
そのよう人たちはともかく、もし、私のいうことを少しでも聞いてみようと思う人は、少しでも早くそうされた方がいいでしょう。私が話す言葉の先に本当の救いがあるからです。
私はまだまだ発展途上です。(前にそのようなことを天にいわれたことがあります)ということは、まだこの先、どんな奇跡が現れるか知れないのです。
キリストのように、人を次々に癒すような奇跡が現れるかもしれないし、釈尊のような天上界と地獄界を多くの人の前に現せる、そんな神通力が現れるかもしれない、モーゼのように海を真っ二つに割る大奇跡が現れるかもしれない、そのような可能性は十分にあるのです。
この法を拡げれば拡げるだけ、その心も拡がっていくからです。
また、私に従った人は(法に従う人は)その証言者となれるのです。そのような奇跡が自分たちの目の前に現れるからです。
そればかりではありません。この法の勉強をするのであれば、その私がこれから現す奇跡と、同じような奇跡を自分たちも現すことになるかもしれないのです。
これもまたその可能性は高いのです。それは高橋先生の遺された予言で証明出来ます。
高橋先生は、これから日本に菩薩界が出来るといわれました。(それはもう何度もこのブログに書いています)
ということは、すでに日本には(多分、日本だけではないと思います。日本以外の国にも生まれていると思いますが)たくさんの菩薩たちが生まれているはずです。
菩薩(菩薩界から生まれている人たち)であるなら、その秘めた能力は皆それぞれ素晴らしいものがあるのです。
しかし、その菩薩の能力はこの世のことだけしていても現れません。
一部現れる人もいますが、それが天才といわれる人たちです。最近は若い人で、能力の秀でた人がたくさん出てきました。(スポーツの分野など見れば分かりやすいのですが)あのような天才的な能力が菩薩の秘めた力の一部であるのです。(だから、そのような能力がある人は菩薩界から出てきている人が多いということです。全員ではないと思いますが)
ただ、あのような能力は菩薩の一部の力なのであり、菩薩がこの法を学ぶなら、もっと素晴らしい能力がこの世に現れてくるのです。
それは、キリストの弟子たちが起こした奇跡を知るならば分かるはずです。キリストの弟子たちは(ペテロ、ヨハネ、パウロなど)ほとんどが、その菩薩界から生まれて来た人でした。
しかし、このキリストの弟子たちは、キリストに出会うまでは、ただの漁師であったり金貸しや役人などであり、別に特別の能力を持っていた人たちではありませんでした。
それがキリストと出会い、そのキリストの教えを勉強するうちに素晴らしい力を発揮するのです。
これは、キリストの力と、自分たちが元々持っていた力の融合が、弟子たちにあのような(使徒言行録に記録されているような)キリストと見まがうほどの奇跡の現象を現したのであり、このような菩薩の秘めたる力は、法を勉強しないと出て来ないのです。
このように法を勉強するなら、先の楽しみはどれだけあるか分かりません。
法を勉強するなら、自分の心も軽くなって幸せな生活が送れるばかりでなく、そのような奇跡の現象も心に応じて現れてきます。もちろん奇跡が現れるようになれば、死後の世界も、それに応じた世界に行くのですから当然天上界です。
法は、文証(神理を文字で書いて現す)理証(神理を言葉で伝える)現証(神理を奇跡として現す)この三つが揃って初めて法(釈尊の説かれ正法、キリストが説かれた福音と同じ神理という意味です)というのですから、これほど分かりやすいこともないわけです。(いうだけではなく、書くだけでもなく、いきなりおかしな現象が現れるだけでもなく〔こういうのはすべて悪魔の教えです〕口で神理を説いて、それを書いて遺し、その正しさの証明として奇跡が現れるのですから、その分かりやすさ、正しさは悪魔の教えとは雲泥の差なのです)
自分の罪を認めたくない、自分の間違いを認めたくない、などと意地を張っている場合でしょうか?
これだけの教えが出ていて、そうしてその教えを勉強すれば、自分がこの先どれだけよくなるか分からないのです。
過ちては改めるにはばかることなかれです。昨日までは、法を信じない自分であっても、今日から法を信じるようになれば、それでいいのです。
一日遅れれば、その一日だけ悟るのが遅れます。
法を知れば知るだけ幸福が得られ、その法に逆らえば逆らうだけ、不幸を得るのです。
幸福か、不幸か、どちらを得るのがよいのでしょうか?
それは聞くまでもないでしょう。
法を知ることにより得ることが出来る幸福は無限なのです。



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