6月 20 2015
愛と智慧と広い心
最近は、熊に襲われたりイノシシに襲われたりする事件なども多発しています。
しかし、昨日公開した動画を観てもらえれば分かりますように、動物たちは人のいうことをよく聞きますし(当然人の言葉もよく理解しています)愛想のいい態度も取ります。
基本的には、動物は人のことが好きなのです。
その人に愛があるなら、動物はその人から逃げたり襲ったりはしません。動物たちがそのような態度を取るのは、その人に愛が足りないからです。
動物をどうこういうより、まず自分たちの愛のなさ智慧のなさを反省されてはどうでしょうか。そのような愛と智慧がある人が増えれば、逆に不幸な動物たちは減って行くからです。(愛と智慧のある人がもっと増えれば、ペットを捨てる人も減るでしょうし、むやみに餌をやったりして、動物たちを必要以上に増やしたり、呼び込んだりすることもなくなるからです。私は餌などやらなくても、いくらでも動物たちは嬉しそうに寄って来ます)
鳥などが寄って来る私を見て、ひがんだりねたんだりしている人もいますが、そのような心を持つからますます愛も智慧もなくなるのであって、少しは見習ってはどうでしょう。そのような広い心があるなら、いずれは動物たちも寄ってくるようになるからです。
この辺りの人たちは反発ばかりしています。だからよいことが起きないのです。(そうして悪いことが起きたら私のせいです。〔責任転嫁〕ますます愛など出て来なくなります。それでは憎しみしか出て来ないでしょう…なんか愛とか智慧とか広い心とか、この辺りの人にあてつけのようなことばかり書いていますね。〔苦笑〕)
どこかの会社も今日は休みのようですが、せっかくの休みでも、何か恐ろしい病気が発症するのではないかと思ったら、気が気ではないでしょう。それでは休んでいても何も楽しくありません。(ブログにも書きましたが今週はもう朝からパワー全開でしたからね)
そういう人生が楽しいのでしょうか?
この人たちは愛もなければ智慧もない(何せ同じことばかりやっています。本当に智慧がありません)広い心もない典型のような人たちだと思いますが、これでは不幸にしかならないのです。
このような人たちが、仮に百まで生きたとしても何も楽しいことなどないからです。病気の心配ばかりしていなければいけないのです。そんな人生など一体何が楽しいのでしょうか。
愛もなければ智慧もない、広い心も持てないような人など楽しい人生を送れるわけがないのです。
しかしそれは特別この辺りの人だけではなく、誰にでもいえることなのではないでしょうか。
自分が、いつ恐ろしい病気になるのか分からないという不安は誰にでもあります。ただ他の人は、どこかの会社の連中よりは切実ではないということだけです。
そうであるなら、それは一時その不安を忘れているだけであって、常にそのような不安は心にあるわけですから、その不安を時々思いだしてそれで本当に楽しい人生が送れているのか、ということも考えなければいけないのではないでしょうか。
実際の多くの人は、ただ表面上ごまかしているだけで、そのような数々の不安を心に宿したまま、不幸な人生を歩んでいるということです。(死への恐怖はもちろんですが)
そのような人生が本当に楽しいのですか?
表面上楽しそうに見せているだけで、心の中では、いつ病気をするのか分からないとか、いつ不幸な事故に巻き込まれるのか分からないとか、死ぬのが怖いとか思っているわけです。
それでは偽善者のような生活ではないですか。もっと自分の心に正直になったらどうでしょう。
しかし、多くの人が自分の心に正直になったら、暗い人生しか送れなくなります。そうは自分の心に正直にもなれないでしょうね。(笑)
要は、その心の不安を取り除ければいいのであって、それには先ほどいいました、愛と智慧と広い心が必要なのであって、それが備わっているのなら、その不安の心はなくなり本当の楽しい人生が送れるということになります。
その愛と智慧と広い心がないから、その不安を取り除くことが出来ないのです。そのような心があれば、その不安を取り除くことが出来るのはこの法しかないとすぐに分かるからです。
つまり、本当の神の教えを学ぶ以外、その不安を取り除く方法はないということです。
現に、このブログを知って信じた結果、そういう心の不安が少なくなった人は多いと思います。
しかし、その不安がなくなったわけではありません。なぜ、なくならないのか?
それはこの教えを真剣に学ばないからです。
この教えを真剣に学ぶのであれば奇跡が体験できます。そのような奇跡を体験すればするだけ、そのような心の不安は解消されていくのです。
それはなぜか?
奇跡を体験するということは、それは即ち神の業を体験するということだからです。
神の業を体験するということは、それだけ神とかかわるということなのですから、その神とは愛と慈悲の塊の存在なのですから、その神とのかかわりが深まれば深まるほど、そのような神の愛と慈悲の力で浄化され、心の不安はなくなっていくのです。
私がいい例です。普通であれば、これだけ多くの人から嫌がらせを受ければ、鬱(うつ)になってもおかしくはありません。しかし、精神的にはいたって健康なのです。(心が健康でなければこれだけブログも書けません)
なぜ、普通でいられるのか?
神の愛が次々に周りに現れているからです。それだけの神の愛に接しているから普通でいられるのです。
私に嫌がらせをしてくる人たちは次々と不幸になり、外に行けば、動物たちがかわるがわる愛ある行いをしてきます。
別に、私に嫌がらせをしている人たちが不幸になることがいいとはいいませんが、神が依怙贔屓(えこひいき)をするわけがありません。
悪い現象が起きるのは起きる人に問題があるのであり、それを気づかなければいけないのであり、そのようなところにも神の愛を感じるのであり、外に行けば動物たちの嬉しそうな態度を見るだけで、そこにも神の愛を感じるのであって、そのような神の愛に癒され続けているのであれば、自分が持っている不安など段々なくなって行くのです。
すべて神が導いてくださる、そのような心が自然と大きくなって行くからです。
つまり、神の愛を感じることが増えれば増えるほど、不安な心はなくなって行くということです。不安より愛の心の方がはるかに勝るからです。
だから、神の愛を感じれば感じるほど不安はなくなって行くのです。神が自分を不幸にするはずはないと、段々思えるようになるからです。
毎日、不安を隠しつつ表面上だけ楽しそうな人生を送るのと、心から楽しい人生を送るのと、どちらが幸せなのでしょうか?
偽善のような人生はソロソロ卒業されてはいかがでしょう。
そのような人生を卒業するには、愛と智慧と広い心が必要なのです。



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