4月 01 2010
釈尊出世の予言の検証⑥
今まで悟りの境地といえば、無の境地になること、無我の境地になること、無念無想ということが言われ、その悟りの意味がはっきり語られることはありませんでした。辞書など見ましても、悟りとは「迷妄を去って真理を会得すること。また、その真理」ということが書いてあり、その真理の意味が何であるかということは書いてありません。
日本の名僧、高僧あるいは宗教の教祖と言われる方々におきましても、悟りとは、無の境地になること無念無想などという答えしか出てこず、悟りの意味をはっきり語った人はいませんでした。
この事実は何を意味しているのでしょう……それは、ここ数百年(もちろん現在ある人たちも含め)の間にでてこられた名僧、高僧、宗教家と言われる人たちの中に悟りを開いた人がいなかった、ということです。悟りを開いた人がいなかったから、悟りの意味をはっきり語れる人がいなかったのです。
考えてみてください、悟りとは無の境地になることである、としたり顔で言われる坊さんがいますが、無の境地とはどういう意味でしょう。無とは何も考えないということでしょうか?何も考えないとは、何も考えないということを考えていることですし、それも考えないということは、何も考えないということも考えないという考えでしょうし、実際に何も考えないということは、何も考えないということを考えている一つの考えであり、何も考えないということは現実には不可能で、人は常に何がしか考えているのです。
よく分からないのは、このような無の境地と悟りの境地がどうしたら結びつくのか、ということです。悟りとは真理を知るということにもなるのですから、無の境地にいくらなっても、真理が分かることにはならないのではないでしょうか。それとも無の境地を深く知れば真理が分かってくるとでもいうのでしょうか。そうはならないということを歴史が証明しています。先ほどもいいましたが、悟りを無の境地とか無念無想とかいった人で、悟りの意味を語った人が一人もいないということが、その事実を物語っています。
今までの数十、数百年の間、悟りというものを考えた人の中で、悟りの境地というものが無の境地やら無我の境地といわれることに、疑問を持つ人が誰もいなかったのか、不思議でなりません。あるいは、疑問を持つ人もいたかもしれませんが、そのような疑問を持った人も、悟りの本当の意味を知ることなく、亡くなっていかれたということになります。
しかし、人類の悲願(少なくとも私はそう思います)であり、全ての人が最終的に辿り着かなければならない究極の境地である、悟り(宇宙即我)の境地の意味が、史上初めて文字として表されました。人類の歴史上ありえなかったことが、現代に起こったのです。
それは過去インドで、ゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏として法を説かれた魂が、日本に高橋信次という名で現れたことにより、起こることになった大奇跡であったのです。



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