2月 27 2016
人のせいではなく自分のせい
いやはや朝からもう凄い怒りようです。昨夜からそうでした。やたら怒っていたのです。
ここ数日は特に激しいのですが、それにしても勝手な話です。
自分たちが散々嫌がらせをしておいて、悪いことが起きだすとそれを全部私のせいにして、それで、そういうことをしているから災いが起きるのだと、嫌がらせをやめて詫びを入れるなら、その災いが止まるよう私も祈るといっているのに、そう私がいうのを一切無視して嫌がらせをやり続け、それでなお災いが起き出したのを、それも全部私のせいにしてよけい怒っているというのですから、これだけ勝手な話もないわけです。
しかし、それはどこかの会社だけではないでしょう。
この辺りの人など皆そうであるからです。
法を説いている人に嫌がらせなどしてはいけない、それでは罰が当たると、どれだけいっても私に対する嫌がらせをやめないのです。
それで私が祈ると、なんと祈られた方がムッとして怒っているのです。
私は、そういう人たちが間違った行いをしていると思うから、天に「この人を正しくお導きください」と祈っているだけなのです。(私は嫌がらせをして来た人に対し、それを嫌がらせで返すのではなく、正しい祈りで返しているのですから、これだけ正しい行為もないわけです)
そのような正しい祈りには怒るくせに、自分がしている嫌がらせは悪いとも何とも思わないというのですから、これ以上、自分の悪に気づいていない人もいないわけです。
だから私は、そういう人たちを祈っているのに(口でどれだけいっても分からないからです)では、こういう人たちの間違いを正すにはどうしたらいいというのでしょう。
腕ずくで殴ってでもやめさせろとでもいうのでしょうか?(そういう行為が間違っているということは明らかなのです)
それとも大きな心で許してやれとでもいうのでしょうか?
しかし、それは大きな心ではないのです。間違った心でしかないのです。
そういうことに知らぬ顔をするということは、間違ったことをしている人を見て見ぬ振りをするということと同じだからです。
だいたい、一人の者によってたかって大勢の者が嫌がらせをしているのです。
そのような行為が正しいことでしょうか?どう考えても、そういうことをしている人たちの方が悪いでしょう。
なのになんで、そういう人たちに災いが起きていることが私のせいになるのでしょう。その起きている災いは、どう考えても天罰でしかありません。
人のせいではないのです。自分のせいでそのような災いが現れているのです。
それをこの辺りの人たちはどうしても認めようとしませんが、認めないなら認めるまで、その災いは続くでしょう。
災いの原因をつくっているのは、嫌がらせをしている人たちの方であるからです。
ずいぶん、その災いが激しく現れだしたように感じますが、よいのでしょうか?いつまでも人のせいにし続けていてです。
昨日は金山に行っていたのですが、その帰り道でもです。この辺りに比べずいぶん静かになりました。(それは対照的ですね)
わりと広い通りを歩いて帰ってきたのですが、ブシュとやって行くトラックやバスもありましたが、皆ずいぶん元気がありませんでした。(やったかやらないか分からないくらいです)
ここ数日は、そのような人たちに対して、わざと刺激的なブログばかり書いていたのですが、それでも前のように思いっきりブシュとやって行く人はいませんでした。
どうしたのでしょう?少し前までなら、こういう内容のブログばかり書いていたら、意地になってブシュブシュやって行く人が多かったのにです。
この近所の人たちと違って、運転手の皆さんは、そういうことは悪いことだと反省されたのでしょうか?
そうではないでしょう。やはりこれまで以上に災いが起きて来ているからでしょう。
だから、態度が変わっているのです。(静かになるか、やたら怒りだすか、両極端にです)
もう相当な現象が現れだしていると思いますが、それでもまだ、この法に逆らうのですか?
この法に従うのなら、次々に奇跡が起きているというのにです。
一日、二日前に大阪の梅田で車が暴走して死傷者が出た事件がありました。あの車の運転手だった人は病死であったそうですが、アクセルを踏んだまま病死したのです。
こういうことが過去あったでしょうか?
車のアクセルを踏んだまま病死して大勢の人をはねるなど、これまでにはちょっと考えられないような事件まで起きているのです。(しかもよりにもよって繁華街でです)
これもやはり人々の心が関係していると思います。
間違った心が、そのようなこれまででは考えられないような事件まで引きよせてしまうのです。(だから、車の性能ばかりうんぬんいっているより、人々の心を変えないといけないのです)
これからは、法がないところには災いが起きます。自分たちの間違った心がそのような災いを呼ぶからです。
この法を実践するなら、奇跡が起きるということは、すでに多くの人に実証されています。
これほど分かりきった現象が現れているのに、なぜいつまでも逆らっているのですか?
逆らえば逆らうだけ、自分たちが危なくなるというのにです。
追伸…もうパワースポットだの、霊験あらたかな場所だのいっている場合ではないですよ。本気の神の業が次々に現れだしているからです。
こちらにいるとそれが一層よく分かります。(かなりやばそうな人たちが一杯いますから)
だいたい、この地球自体がすでに神につくられた神殿なのです。
その神殿の中にすでに住んでいる私たちが、あそこがいいだの、ここがいいだのいったところで、そのようなところも含めてすべて神がつくられているのですから、よいも悪いもないということです。
パワースポットだの、霊験あらたかだのという場所は自分(の心)でつくるのです。人に(あるいは神に)つくってもらうものではありません。
そこはお間違いのないようにしてください。
霊域がよい場所は自分たちの心がつくるのです。だから心を正せば、そこが知らず知らずのうちにパワースポットになり、霊験あらたかな場所になるのです。
そのような場所には次々にお蔭が現れます。
この辺りが、そのよい例ですね。



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