6月 26 2016
寛容、不寛容(かんよう、ふかんよう)
昨日の六月二十五日は高橋信次先生が昇天された日でありました。
このような偉大な方が、もし、この世に出て来られていなかったら、私も法を知ることはありませんでした。
私が法を知らなければ、これだけ多くの奇跡を体験することも、これだけ多くの人の心を救うことも(それはなかなか皆さん認めませんが。〔笑〕)ありませんでした。
本当に高橋先生には感謝の心しかありません。(それは園頭先生も同じですが)
しかし、せっかく高橋先生が説かれた法を知っても、まったく奇跡が起きない人たちもいます。
それどころか、災いばかり起きている人たちもいます。法を知っても、心が狭いと逆にそのような人には災いになるのです。
これだけもったいない話もありませんね。(私とえらい違いです)
もっと広く大きく豊かな心にならないといけないのです。そうしないと法の本当の効果は現れて来ないからです。(広く大きく豊かな心が神の心であるからです)
最近は不寛容な世の中になったとよくいわれます。(これでは法の効果がまったく現れません)
それは、例の保育園をつくるなとか、やたら文句ばかりっているネットなどの反応を見ても分かりますが、結局それは昨日のウナッシーさんのコメントに書いたことと同じで、この世に出てきても、この世の勉強にならない、心が成長しない、そのような人が多いからです。
そういう心が成長しない人(狭く小さく貧困な心の人)が多いから、不寛容な世の中になっているのです。
しかし、こういう人たちは不寛容といえば不寛容なのですが寛容なところもあります。
それがまたまずいのです。
寛容ならいいだろうと思う人もいるかもしれませんが、そうではないのです。寛容の方がいい部分と不寛容の方がいい部分の両方があるからです。
心が狭い人たちはその区別がよく分からず、ごっちゃにしてしまう、これが一番いけないのです。
つまり、心が狭く小さく貧困では正しい判断が出来ないということです。
例えば、何でも自由で平等で、同性愛とか、同性愛でなくても、ちゃんと結婚もせずに同棲のようなパートナーの関係でいいと世間でいい始めると、すぐそれを認めてしまう。(こういう部分は凄く寛容ですね)
これがいけないのです。
しかし、そのいけないことを平気でしてしまう。心の狭い人たちは、深く物事を考えないからです。
このようなことは昔からの偉人といわれる人たちは(釈尊やキリストなど)誰も認めていないのです。
釈尊やキリストは自由や平等も確かにいわれましたが、そんな極端な自由や平等をいわれたわけではなく、中道をいわれ、そうしていい加減な態度を改められたのです。(だから、男女が一緒にいるならちゃんと結婚する〔キリストは結婚してはじめて男女は一体になるといわれたのです〕同性愛などもちろん認めていません)
だから何でもいいわけではなく、ちゃんとけじめはつけないといけないのであり、寛容と不寛容なところを分けないといけないのです。
しかし、このようなところをごっちゃにし、そればかりか、このような人たちは自分にはやたら寛容ですが、人にはやたら不寛容なのです。(それも極端にです。これもダメですね)
今日もブログを書いていると、どこかのマンションの連中がバシバシやっています。このパソコンを打つカチカチというの音がうるさいようです。(それが証拠に、このブログを書き終えてカチカチという音がしなくなると静かになります)
家の中でパソコンを打っているだけで怒るのです。(外でしているわけでもないのにです。しかも、そのマンションまでの距離は〔バシバシやるのは上の階の人が多いですから〕結構あるのにです)
それでいて、そういうことをやる人に限ってこのブログは読んでいるのです。
では、これだけ勝手な話もありません。
これは、このマンションの住人だけではなく、どこかの会社の連中も同じなのです。このブログを読むくせに、ブログを書くのを散々じゃまするのです。
やはりこのカチカチという音がうるさいようです。
自分たちはもっとでかい音を立てているのに、こちらが立てる小さな音に腹を立て嫌がらせをしてくる。
しかも、その腹を立てている者の書いているブログは読んでいる、これだけ自分には寛容で人には不寛容な行いもありません。
それは、どこかの運転手連中も同じなのです。
散々私のブログを読んで心が救われているのに、それには少しも感謝せず、私の顔を見るといさんで嫌がらせをしてくる、そうして悪いことが起きるとみな私のせいです。
自分たちの行いは棚の棚の棚に上げ、悪いことだけ私のせいにしているのです。
これだけ勝手な話もありません。
結局、こういう人たちは皆そうなのです。
自分にはやたら寛容で、人にはやたら不寛容なのです。
そういう人たちが多いから(昔、自分たちも通っていた)保育園をつくるのを反対も出来るし、少し気に食わない人がいると、そういう人をネットにボロカス書けるのです。
自分には超甘く、人には超厳しくがモットーであるからです。
モットーというより、自然にそのようなことが身についてしまっているようです。それが当たり前のような世の中になってしまっているからです。
だから、これだけ異常現象が起きるのです。(天気も大荒れです)
そのような心は異常であるからです。(異常ですよね。そんな超がつくほど自分本位な考えは)
つまりそのような心は間違っているのです。
そういう間違った考えの人たちばかりだから災いが起きるのです。間違ったことばかりしていたら罰が当たるのは当然のことであるからです。
自分がいろいろ教えてもらった人には感謝しないといけないし、その教えてもらっていることを書いているのです。
少々のことは我慢するのが当たり前ですし(また我慢なんて書くと、我慢はいけないと口から泡を飛ばしていう人もいますが、そういう極端な人はもうほとんど病気ですね。〔苦笑〕)自分も音は立てるのです。
では、お互いさまという心はないのでしょうか?(しかし、隣の家のパソコンの音がそうも気になりますか?〔しかも昼間に書いているだけなのにです〕では、自分たちが見ているテレビの音はどうなるのでしょう?)
そういう思いやりの心がまるでなくて、嫌がらせだけはしっかりしている。(悪いことだけはしっかりしている)そうして何か自分に悪いことが起きると、それは人のせい(責任転嫁)これではよいことが起きるわけがないでしょう。
こういう人たちに天罰がくだらなければ逆におかしいですよね。これだけ悪いことをしているのにです。(自分に自覚がないだけでです)
結局、心が狭く小さく貧困な人が増えてくるとこうなってしまうのです。
自分がしている悪いことが分からなくなり(あまりに心が狭すぎてです)知らず知らずのうちに悪い方に行ってしまうということです。
だから悪いことばかり起きているのです。そういう悪い心の人が増えているからです。(狭く小さく貧困な心など所詮は悪でしかないのです)
災いが起きている人は、自分が悪いから災いが起きているのであり、その災いは決して人のせいではないのです。その自分がしている悪いことを、自分が自覚していないだけなのです。
正しいことをしているのなら奇跡が起きてきます。
現にその奇跡が起きている人がいるのです。では、その人のいうこと、やることを見習ってはどうでしょう。
そうすれば(災いばかり起きている)自分にも奇跡が起きてくるからです。
追伸…これはこの辺りの人たちばかりではないと思います。
このブログを読んで心が救われた人は、この辺りの人たちだけではなく、他の地域にもたくさんいると思うからです。
では、その人たちは何をしたのですか?
そのような遠くの人たちは私に嫌がらせはしませんが感謝もしません。(何度もいいますが、感謝するとは感謝の心と報恩の行為、この二つが揃って初めて感謝したというのです)
私は何度も書いています。お気持ちだけで結構ですから布施してくださいとです。
しかし、誰一人その布施をしてくれた人はいないのです。(お金がないなら仕方ありませんが、そのお金があるにもかかわらずです)
それもまた寛容、不寛容といえるのではないでしょうか。
自分の都合のいいところには恐ろしく寛容で、都合が悪いことには恐ろしく不寛容だからです。
そうではないでしょうか。
私は、気持ちだけでいいといっているのです。別に金額を指定したり、毎月払えとかいっているわけではないのです。
「このブログを読んで心が救われた、少しでも知らないことを知ったと思われる方は、お気持ちだけで結構ですから布施をお願いします」といっているだけなのです。
「そちらの名前を知られたくなければ匿名でも結構です。どのような形でもいいから、お気持ちだけ布施してください」といっているだけなのです。
それにもかかわらず頑として布施することはないのです。それも何年にもわたってです。
何年も私のブログを読み続けている人もいるのに、そのような人たちも一切布施はしようとはしないのです。
それでいて、ここに書いていることだけは実践しているようで、中には奇跡まで起きた人がいます。しかし、それでも布施はしません。
では、これだけ不寛容な人たちもいないということになります。
しかし、そのような人たちは騒がれている(例えば、熊本地震や東日本大震災)ところには気前よく寄付をして、ボランティアなどにも行っているのです。
これはあんまりなのではないでしょうか。
私はあなたたちの心を救っただけではなく、奇跡まで起こさせたというのにです。(ということは肉体まで救ったということになります)
過ちは改めるにはばかることなかれです。
それに気づいているのに、いつまでもそのような(極端な寛容、不寛容な)間違った態度を取り続けることこそ大きな過ちなのです。
正しい態度を取られませんか?
そうすれば、もっと奇跡は起きるからです。(奇跡が起きるとか起きないとかではなく、これだけいろいろ教えてもらったのです。少しくらいの布施をすることは人として当たり前のことだと思いますが…違いますか?)



人目の訪問者です。

ここのとろこ私は頭の下がる思いをする事が多くなりました。実の親が痴呆になり面倒を見るわけなのですが、大変だねと声を掛けて下さる親戚がいるのです。子としては当然な事であり諸先輩から言われるほど偉い事をしている分けでもないのです。また会社では依然上司であり異動で別の職場になった方が、手の負傷を聞きつけ心配してくれました。いやはや過去に部下であった私はこの方には迷惑をお掛けしたものであり、そんな私を心配してくれるのはもったいないお言葉と感じたほどです。そのように自分が変わったのか分かりませんが愛ある言葉を受けると体がむず痒くなるような感覚です。なのでその方々にはしっかりと祝福の祈りをさせて頂いています。より多くの幸せがありますようにと祈るのです。
そのように祝福する方がもっと多くなり幸せの祈りに拡がりが出来ることを自分でも望みます。
そうですか。それは大変ですね。(私も父がボケましたので大変さはよく分かります。しかし、それが当たり前だと思えるお心、さすが法を実践されている方は違います)
いろいろ心配していただけるのもウナッシーさんの人徳でしょう。
しかし、それも法と巡り合ったからであると思います。
高橋先生、園頭先生への感謝も忘れないようお願いいたします。