8月 14 2016
これまでのつけ
昨日も歩いていると、あちこちで怒っている人がいました。(横のオバちゃんもやたら怒っていますし)
私が通ると怒ってでかい音を立ててまあ、子供には見せられませんね。(横に、そのでかい音を立てたオバちゃんの子供〔だと思います〕がいたんですけどね。〔苦笑〕)
何か悪いことでも起きているんでしょうか?それで私に八つ当たりですか?
自分たちがしていることは棚の棚の棚に上げてです。
こういう怒っている人たちはみな私に嫌がらせをしている人たちばかりなのです。中には私のブログを読んでいる人もいます。(横のオバちゃんなどそうです)
自分たちは私に散々嫌がらせをしておいて、それを一言も詫びようともせず、そればかりか(私のブログなど読み)心まで救われているにもかかわらず、それには少しも感謝せず、平気で生活している人たちが何か悪いことが起きたら私のせいです。
一体この人たち、どれだけ自分本位で都合がいいのでしょう。
こういう人たちは一事が万事こうなのです。
反省もしなければ感謝もしない、それでいて悪いことが起きると人のせい(責任転嫁)こういう人たちに悪いことが起きないはずはないのです。
これまでだってこういう人たちに悪いことは起きていたのです。
不慮の事件や事故に遭う人はいくらでもいますし、不治の病におかされる人だっていくらでもいます。
そういうことが自分たちに起きているだけなのに、それをこれまでは偶然であると思っていて、それでそういう悪いことが起きても、それは運が悪かったと諦めていたことを、私のような者が出てきたものですから、そういうことは偶然ではないと分かり、それで悪いことをみな私のせいにしているのです。
自分たちの心と行いは一切問題にせずです。
悪いことが起きるのは偶然ではなく必然であると分かると(そこまで分かったことはいいんですが)今度はとたんにそれを責任転嫁する、どこをどうとっても自分が悪いとは絶対に思わないのですから、本当に始末が悪い。
それにしても人を反省させるということがこれだけ難しいとは思いませんでした。
こういう人たちはこれまで、ずいぶん都合のいい人生を歩んで来たんだなとつくづく思います。
よほど都合のいい人生を歩んでこなければ(悪いことが起きるのは偶然ではないと分かったのなら)少しは自分も悪かったのではないかと反省の心が出てきてもおかしくはないからです。
しかし、このような人たちは、自分たちに悪いことが起きると、自分たちのことは一切反省しようとせず、その悪いことをみな私のせいにして怒っているのです。
本当にそれでは都合がよすぎです。もう少し自分たちの行いを考えてはどうでしょう。(まったく感謝もせず、反省もしないです)
そうしないと悪いことは止まらないからです。
自分たちに悪いことが起きた原因は自分たちにあるのです。それ以外にありません。つまり、その悪いことを私のせいにしているのはまったくの見当違いであるということです。(自分たちの性格が悪いから自分たちに悪いことが起きるのです。はっきりいうなら、自分たちの性格の悪さを自分たちが知らないだけだということです。きつい言い方ですが本当のことだから仕方ありません。そういうきつい言い方でもしないといつまでたっても自分の性格の悪さに気づかないからです)
せっかく悪いことが起きるのは偶然ではなく必然と分かった人が多いのです。
では、もう少し考えを進め、その悪いことが起きたのは人のせいではなく、自分が悪かったのではないかと少し自分の心と行いを反省してみたらどうでしょう。
そこまで出来ないと、その悪いことは止まらないからです。
マァ、まだそこまで出来ない人が多いから(どこかの会社の連中やらどこかの運転手の連中やらもそうですが)この辺り、悪いことが起きる人が多いのでしょうが、そこまでしない限り、その悪いことは止まりません。
では、するしかないのではないですか?その反省をしない限り悪いことは止まらないからです。それをいくら人のせいにしていても、それは泣き言でしかないからです。
泣き言をどれだけいいならべても、それで許されることはないのです。子供ではないのですから、そういうことがどれだけ無駄なことかはお分かりいただけると思います。
自分たちがこれまで悪いことをし続けていたのです。(それは私に対してだけではなく、神に対してもです)
泣き言ばかりいっている人たちは、ただ、その悪いことを知らずにいただけなのであり、私は、そのこれまで多くの人が知らずにいた悪いことを教えただけなのです。
だから、その知らずにいた悪いことを少しでも反省した人には奇跡が起きているです。そういうことが出来るようになったことで、また一つ心は成長するからです。(心が成長するなら奇跡は起きます)
そういう奇跡を見てもらえれば、私がいっていることが正しいと分かるはずです。
いま悪いことが起きている人たちは、ただ自分たちのこれまでつくってきたつけが現れているだけであり、そのつけはみな自分たちがつくったものなのです。
しかし、自分がつくったつけなら自分が払わない限り、そのつけはなくならないのです。そのつけを払うということが反省するということなのです。
災いばかり見ているから、私が悪く見えるのであって、私は多くの奇跡も現しています。
人の悪いところばかり見ずによいところも見てはどうでしょう。そうすれば、その人が本当に悪い人か、それともよい人か分かるからです。
私に従う人には(法に従う人には)奇跡が、私に逆らう人には(法に逆らう人には)災いが、これだけはっきり現れているのです。
そういう事実をいつまでも認めようとせず、自分たちの間違いを認めようともせず、責任転嫁ばかりしているから悪いことが起きるのです。
自分がつくったつけは自分で払わないといけません。(自分がつくった罪は自分が反省しないと消えません)
どれだけ人にそのつけを回そうと、自分のつけを人が払ってくれることはないのです。
早くそのつけに気づかないと、そのつけは増えていくばかりです。ということは災いも増えていくばかりであるということになります。
私は昨日は堀川に行き、一昨日は荒子川に行っていました。
そういう川に行って呼びかけると、多くの魚たちが水面まで上がってきてピチャピチャ跳ねて泳ぎ回っています。
そういう魚たちを見ているだけで癒され、不思議な気分になります。
川に向かって呼びかけるだけで魚たちがたくさん底から上がってきて、寄ってくるのですから、不思議なことが起きれば起きるものとも思えるからです。
そういう不思議で心が癒される奇跡的なことも、その奇跡を多くの人に現すことも、また、多くの人の災いをなくすことも、この法を実践するなら可能なのです。
いつまでも進歩のないことを続けているのですか、進歩のないところには災いは現れても、決して奇跡が現れることはないのです。



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