9月 18 2016
愛を持つことの大事さ
二日ほど前の話ですが、女子プロゴルフのトーナメント(マンシングウェアレディース)を観に行ってきました。
しかし、相変わらずあちこちで怒っている人がたくさんいます。(本当に何年たっても変わりません)
そういう態度の人たちに、こちらは辟易(へきえき)しているものですから、昼頃トーナメント会場を出て近くにある野間の海に行ったのですが、そこではまた不思議なことが起きました。(これもまた恒例ですね。〔笑〕)
海岸につくと私はコンビニで買ったおにぎりを食べ始めたのですが、近くにカモメの集団がいました。(たしか二~三十羽いたと思います)
その集団が、私が近くにいたからかどうか分かりませんが(多分私が近くにいたからでしょう)大騒ぎを始めたのです。(その中の半数くらいのカモメがです。後の半分は知らん顔をしていたようですが、そのギャップがまた面白かったです。〔苦笑〕)
ギャーギャー鳴き始めるもの、水面で堀川のカモメたちのようにバシャバシャし始めるもの、近くを飛び回っているものと、にぎやかなものです。
「お前ら少し静かにしろ」と声をかけながらおにぎりを食べていました。
しばらく、そのカモメたちを眺(なが)めながらおにぎりを食べていたのですが、ふっと目の前の波打ち際を見て驚きました。
なんとそこに、また小魚が来ていてバシャバシャやっていたからです。
いつからいたのか気づきませんでしたが「……?何やってんのこいつら、すぐそこにあれだけカモメがいるのに」と私は少し呆然として、その小魚たちを見ていました。
少し離れたところにたくさんのカモメたちがいるのです。(また近くにサギも二、三羽いました)それにもかかわらず、この小魚たちは平気で波打ち際まで泳いできてそこでバシャバシャやっているのです。
私は驚いて、おにぎりを持ったままで「お前らこんなところにいると危ないぞ。早く沖に帰れ」と近くまで行って小魚たちを追っ払おうとしましたが、その小魚たちは私が近くまで行くと、逃げるどころか嬉しそうに泳ぎ回っています。
何度追っ払おうとしても逃げて行かないのです。
「困ったな」と思っていると、少し離れた場所ではカモメたちがまだ大騒ぎしています。
私が近くにいればカモメも寄って来ないだろうと、そこでおにぎりを食べ少し休んでいましたが、小魚たちは逃げるどころか段々数が増えて来ました。(最初は小さな一団が波打ち際で騒いでいただけでしたが、そのような集団が、あちこちに出来はじめ、最初にいた小魚たちの集団の数も知らぬ間に増えていました)
それでしばらくはそこにいましたが、あまり小魚たちが寄ってくると、さすがにカモメたちもこちらに飛んできかねないので(だって、魚をとっている漁師の回りなどカモメたちがたかっていますからね。餌がそこにあれば人がいようがいまいがカモメたちは飛んできます)私は「お前らまたな」とその小魚たちやカモメたちにいって、その場を離れました。
私があそこにいつまでもいては、小魚たちがどれだけ波打ち際まで寄ってくるか分からなかったからです。
しかし、私はあまりの違いに愕然(がくぜん)としました。
何の違いに愕然としたのかといえば、その海にいた魚やカモメたちと、先ほどのトーナメント会場にいた人たちとの心の違いにです。
一方は、私が悪いことをやっていると信じ込んで怒って嫌がらせばかりして来るのに対し、もう一方は、なんと自分たちの命が危険にさらされていても、それでも私の近くまで喜んで寄ってくるのです。
これだけやることが違っていては、それは愕然とします。
あまりにその心が違っているからです。
動物たちは法の偉大さを理解しているから命を懸けても私の近くに寄ってくるのであり、人間たちは、この法の偉大さが理解出来ないから、いつまでたっても多くの人が私に対し怒っているのです。
そうして協力しようともしないのです。
法の偉大さが分からないからです。
法の偉大さが分かるのであれば、率先して私に協力するでしょうし、私が悪者か、それとも普通の人以上の善人かは分かるのです。(だから動物たちは命懸けで私の近くに来るのでありますし)
しかし、それがいつまでたっても分からない、これこそ法が理解出来ない、典型的な例なのであり、だから不幸が続くのです。
では、何で今いる人たちは法をいつまでたっても理解出来ないのでしょう。その理由は何か?ということですが、それはやはり愛がないからでしょう。
愛がない人に法は理解出来ないのです。
最近の多くの人の狭量さは目に余るものがあります。
例えば、子供がうるさいので保育園をつくるなとか、最近は風鈴の音さえうるさく感じる人も多いとか。
昔は自分も同じように周りに迷惑をかけ世話になったはずなのに、そんなことはなかったかのように振る舞い、風流と思えるようなことまでうるさいと感じてしまう。
昔では考えられないことですが、それだけ最近の人は狭量になり愛がなくなったということです。
こういう事例は、その典型であると思うからです。
これでは法は理解出来ないのです。心があまりに狭く小さくなっているからです。
法はその心を広く大きくするものです。あまりに心が狭く小さくなっている人たちばかりでは、その法の偉大さを理解出来ないのは至極当然のことであり、だからたくさんの不幸が起きているのです。
そういう法を理解出来ない、狭く小さな心は多くの不幸を呼ぶからです。
愛を持とうとしないから不幸になるのです。愛があるなら、そんな不幸は寄ってこないのです。
愛は不幸を遠ざけ、幸福を呼ぶからです。
少し愛を持つなら、自分たちがお世話になり、自分たちも迷惑をかけた保育園をつくるな、などとは決して思わないはずです。
自分も過去同じことをしてきたからです。同じように小さい時は周りに迷惑をかけ、周りに世話になってきたからです。
では、お互いさまという心は当然あるはずです。
しかし、そういう心がまるで出てこない、これこそ愛がない証拠なのです。
しかし、結局、そのような愛のない心は損なのです。そのような心が回り回って自分に返ってくるからです。
愛のないことをしていると、愛のない人生しか送れないのであり、愛のない人生しか送れないのであれば、結局その人は不幸な人生であったということになるのです。
愛のない人生など不幸以外の何ものでもないからです。
少し心を広げ愛を持たれてはどうでしょう。そうすれば、その愛が自分に返って来て、幸福な人生を歩むことが出来るからです。
(その究極の愛が先ほどの命を懸けても近くに寄ってくるという魚たちの愛であり、その対極にあるのが、命を懸けても神に逆らうという、この法の流布をじゃましている人たちです。毎日のように悪いことが起きているようですが〔何か本当に凄そうです〕いつまでそんなことを続けるのですか?本当に滅ぼされますよ)
追伸…2018年のNHKの大河ドラマが「西郷(せご)どん」に決まったそうですね。
私が尊敬する西郷さんが大河ドラマの主役ということになると本当に楽しみなのですが、今回は女性の方が脚本を手掛けるとのこと。
そうであるなら女性ならではの視点で、西郷さんの深い愛をぜひ多くの視聴者に伝えてほしいものです。
西郷さんは人以上に愛深い、慈悲深い方であり、天を思いながら行動された方です。(その西郷さんの心は「敬天愛人」を知るなら分かります)
それをより深く伝えてほしいのです。
女性はそのような愛の深さを伝えるにはうってつけであると思うからです。(男では、なかなか西郷さんの愛深さまでは伝えることが出来ないと思いますから)
この愛がなくなった世の中に西郷さんの広く深い愛を伝えることは、まさに時代に即したドラマであると思います。
それを思うなら再来年のNHKの大河ドラマは本当に楽しみですね。



人目の訪問者です。

こんにちは。先生の奇跡には毎度ながらそんなことがあるのだな、と思う不思議さでいっぱいです。私は反省を日々通しております。そして幾日か前に気付きがありました。それは過去の私には不足していた心があったという事です。神の子であるという心に気付かなかった、その事が分かりました。本来ならば気付きを与えられており当然反省を通して神の心に近付けるはずであったのです。ですから、今そこに本来気付くべき心のエネルギーと言いますかそういうイメージで補っているのです。その中で日々を通し日常の中で大切なことを心で学んでいる身であります。少しづつ心を広げてゆき行く先は天下大平の世に貢献出来るようにしてゆきます。
そういう不思議な動画もたくさんたまっています。(何せ、誰も布施してくれないものですから、公開しようがありません。〔笑〕)
よい行いをすればするだけ奇跡が起きてきます。(それが太平の世に貢献するということにもなります)
ウナッシーさんも頑張ってください。