10月 20 2016
法則が支配する世界
朝からパニくっています。(前のバカ会社です。一人凄いのがいて朝から大騒ぎです)
このバカ会社の連中、ここ一日、二日はずいぶん引いていたのです。(悪いことが起きっぱなしなんでしょう、きっと)しかし、ずいぶん引いているのですがブログを書き始めるとまだガタガタやりだすのがいて、このブログのじゃまだけはしてきます。
それで昨日、一昨日など、途中まではブログを書いていたのですが、あまりにしつこくじゃましてくるものですから、途中で書くのをやめこの連中をガンガン祈ってやりました。(法の流布のじゃまなど一番してはいけないことですから)
そうしたら今日は朝からパニくっているのがいて大騒ぎをしています。(一人だけ朝から大騒ぎです。ほんとみっともないったらありゃしない。それにやかましくて本当に迷惑ですよねぇ、ご近所の皆さん)
一体何が起きているんでしょうね。この会社にです。
しかし、本当にこの者たちは物分かりが悪いです。結局そういう嫌がらせを私にし続けているから、災いが起き続けているのであり、その嫌がらせをやめれば、その災いも止まるのです。
しかしこの連中は、何が起きても(このようにパニックになりながらでも)それでも嫌がらせ(悪い行い)をやめようとしないのです。
それでは災いは止まりません。その自分たちがしている悪い行いが自分たちに災いとなって返ってきているだけだからです。
この連中はどれだけいっても、また、どれだけ災いが起きても、それを理解しようとしないのです。
本当に哀れとしかいいようがありませんが、この会社はこういう哀れな人たちが集まっているようです。(誰も自分たちの間違いを理解しようとしないからです)
こういう人たちは何度でも同じ間違いを繰り返します。そういう心のレベルの人たちの集まりであるからです。(はっきりいってあまり心の高くない人たちが集まっているのです)
心の低い人たちは神の存在が分からず、起きていることの意味をしっかり理解できません。だから同じ間違いを何度も繰り返すのです。
その起きていることの意味を理解し、自分たちがしている間違いを自覚できるほど心が成長していないからです。
しかし、その自分たちがしている間違いを自覚し反省出来るまで(そこまで心が成長するまで)この災いは続きます。
それがこの世の(心の)修行であるからです。だからこの世の修行は厳しいのです。
自分たちが分かるまでその修行は続くからです。
三日ほど前は庄内川に行ってきたんですが、帰りにまたガンガンやる人がいて、そこで辻説法です。
あの辺りではもう何度も辻説法をしているんですが、入れ替わり立ち替り、そういうことをしてくる人がいます。
はっきりいってあの辺りも心の高い人が少ないようです。だから辻説法を何度もしないといけなくなるのです。
場所によっては一度辻説法をしたら、一変に静かになってしまったところもあるからです。(そういう場所は心の高い人が多く住んでいるのです。だから正しいことが一度で分かるのです)
場所によってずいぶん違うのですが、このような類は類をもって集まる(類は友を呼ぶ)これを「波長共鳴(はちょうきょうめい)の法則」といいます。
いつもいっている「原因結果、作用反作用の法則」。(因果応報)
そうしてこのような「波長共鳴の法則」。
心の傾向性をいう「慣性の法則」。(クセや業のことです)
すべての物は循環しているという「循環の法則」。(地球は自転しながら公転していますし、それは水や空気も同じです。〔水は水蒸気となって蒸発し雨となってまた降る。空気は私たち人間などが吐き出した二酸化炭素を植物が吸って酸素を出す。これらは水や空気の循環です〕人間も同じように循環しています。〔輪廻転生〕)
エネルギーは増えることも減ることもなく(永遠不滅)ただ別の形に変わるだけという「エネルギー不滅(保存)の法則」。(だから人間も消滅することはない〔エネルギーの数量が変わらないということがその証明です〕人間はこの肉体の世界〔この世〕を去れば、あの世の霊の世界で生活するのです)
この世界はこの五つの法則に支配されているのであり、どこにいても(たとえあの世であっても)この五つの法則の支配からは逃れることは出来ないのです。
すべての世界が、この神がつくられた五つの法則で支配されているからです。
この法則に従って、いま私たちの周りの出来事は起きているのです。
だから、この法則を無視して何かが起きることはありません。だから、いつまでも責任転嫁していてはいけないと私はいっているのです。
悪いことをいくら私のせいにしたところで、原因結果の法則を知るならばそれは自分のせいと分かるのであるのだし、それを人のせいにし続けるのであれば(同じことをいう人が周りに多いのは、それは波長共鳴の法則に従ってそういう人ばかりが集まっているだけなのです。そういう人たち全員のいっていることが間違っているのです)それは慣性の法則に従って、それが悪い業となって自分に残り、その悪い業がなくなるまで苦しい修行を続けなければいけなくなるのです。
その苦しい修行が、例えば今どこかの会社がやっているようなことなのです。(災いが何度でも起きて来る)
それが心の修行なのであり、この心の修行に甘えは許されません。自分の間違いを自分で悟り、その間違を反省するまで、その災いは続くのです。
それはどこかの会社だけではないでしょう。この辺りは、そのような(自分の間違いが原因で)災いが起きている人がたくさんいるからです。
そのような自分の周りに起きて来ることすべては自分に責任があるのです。
この世界は先ほど書きました五つの法則が支配する世界です。その法則の支配から一歩も外に出ることは出来ません。
いい加減認めてはどうでしょう。自分の間違いをです。
ここに次々に奇跡が起きている者がいます。
その者のいうことを参考にされてはどうでしょう。奇跡が起きている者のいうことだけが、その災いを封じる唯一の手段であるからです。(災いが起きている人たちのいうことをいくら聞いても災いしか起きませんから。それではまったく参考になりませんよね)
心と行いを変えるなら次々に奇跡が起きてきます。
いつまで時代遅れの行いをしているのでしょう。(末法の世のです)そのようなことをしていてはもう救われる道はないのです。
追伸…今日はプロ野球のドラフト会議がありますね。
験を担ぐ(げんをかつぐ)監督も中にはいるのでしょうが、もうそういうことはやめられてはどうでしょう。
そういうことはもう時代遅れでしかないからです。(だって、そういうことをしてよい時もあればよくない時もあるんでしょう。では、あまり意味がないのではないでしょうか)
二十一世紀は法の時代です。そうであるなら、その法に従った行いをすればいいのです。そうすれば確実によいことが起きる(よいドラフトになる)からです。
では、法に従った行いとは一体どのようなものなのか?ということになりますが、それはマァ、私がいつもいっている祈るということでしょうね。
ドラフト会議の前にしばらく心を落ち着け静かに神に祈るとよいのです。
もちろん、その祈り方を間違えたらなんにもなりませんが、こういう場合は「神よ、今日のドラフトでチームにとってもっともよい選手が来ていただけますように」と祈るのが正解なのです。
そういう祈りをしてからドラフトに臨むと、チームにとって一番よい選手がドラフトで取れることになり、その選手もそのチームに行って活躍することになりますが、いけないのが、この選手がほしいからと、この選手が来てもらえますようにという祈りなのです。
祈るというとこういう祈りをしがちですが、こういう祈りが実は一番よくないのです。
そのような祈りは自分の我の祈りでしかないからです。
そういう我の祈りは仮にきかれても、その選手が活躍しなかったり故障したりとあまりいいことが起きないのです。自分の我の強さで、その選手が行くべきではなかったチームに行ってしまうことがあるからです。
ただし、その選手がそのチームに行くべきであった選手であるなら、その選手は活躍しますが、一番間違いのない、正しい祈りが先ほど書きました「チームにとってもっともよい選手が来ていただけますように」という祈りなのです。
そういう祈りをしてドラフトに臨むなら、チームにとって一番よい、そうして、その選手にとっても一番よい球団に入団できることになります。
すべて神が正しく導いてくださるからです。(ただしその選手にとっては希望の球団ではないかもしれませんが。その自分の希望の球団と自分が行かなければいけない〔本当の自分の使命を果たせる〕球団は違うこともありますから。しかし、神に祈るのであれば、その自分が行くべき正しい球団を神が導いてくださるのです。だから、ドラフト前に祈るということは監督や球団側だけではなく選手にもいえることなのです)
もう正法の世となっています。
そうであるなら、ゲン担ぎなどという意味のないことをするよりも正しく祈った方がよほどよい結果が得られることになるのです。



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