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1月 28 2017

人の意見に耳を貸さない不幸

10:59 AM ブログ

この辺り、また一段と雰囲気が変です。(汗)

何かシャレにならないくらい怒っている人もいますが、本当に大丈夫ですか?

どれだけ怒って悪いことを私のせいにしていたところで、その災いは止まりません。

どうやったらその災いは止まるのか?それをまず考えてはどうでしょう。

そうしないと(早く災いを止めないと)危ない人たちがたくさんいそうだからです。

散々悪いことをしてきたのは自分たちなのです。

人の悪口やら愚痴やら何やらいってませんでしたか?人に対する意地悪などしたことありませんか?責任転嫁したり自分の罪を人に擦り付けたりしたことはありませんか?

そのようなことはすべて悪いことなのです。(それはお分かりですよね。まさか、こういうことをいいことだと思う人はいないと思います)

では、そういう悪いことを反省一つせずに続けているのなら、その人はずいぶん悪人ということになります。

表面上ではそれが分かりませんけどね。(そんなことはしていないという顔をしていればいいんですから。その人のことをよく知らない人たちはそういうことまでは分かりませんから)

しかし、このような人は心を観れば大悪人です。悪いことをまったく反省もせず平気で続けているからです。(もう心は真っ黒ですね)

そういう表面上では分からない、心の悪まで裁かれる時代になったのです。

だから多死社会になっているのです。そういう心に悪を秘めた人たちが次々に天罰を食らっているからです。

そういう心の悪さに加えて、この辺りの人たちは私に対するたび重なる嫌がらせです。

ただでさえ心が汚いところにもってきて、その心が汚い人たちが、心を救われた者に嫌がらせをしているのです。(心を救われたことにはまったく感謝せずです)

そういう(特に悪い)行いすれば、汚い心がよけい汚くなるのは当たり前のことでしょう。

だから、この辺りは悪いことが集中して起きているのです。

多くの人たちの行いが他の地域の人たち以上に悪いからです。

そのようなこれまでの自分たちの行いをまるで考えず、その(自分たちの)罪を全部私にかぶせて怒って嫌がらせなどしているから、よけい多くの災いがこの辺りに起きるのです。

罪の上に罪を重ねているからです。

もう何度も同じような説明をしていますが、いい加減理解されませんか。

私のいうことをです。(多くの人が、自分たちのしている罪深い行為を自分たちが気づいていないだけなのです)

私のいうことを理解しない限り、この辺りで起きている災いはひどくなることはあっても止まることはないのです。

現にひどくなっているんですよね。怒っている人ばかりでなく、ずいぶん引いている人も多いからです。(もうどこかの会社など別会社のようです)

自分たちが間違ったことをしているから悪いことが起きる、自分たちが正しいことをしているのなら悪いことは起きない。

これが基本なのです。

人は関係ないのです。

それを理解しない限り、自分たちに起きている災いは止まらないのです。そういう悪いことを人のせいにしていること自体、すでに間違っているからです。

間違った考えでいるのであれば悪いことは当然のように起きるからです。(善因善果、悪因悪果)

カンカンに怒っている人たちはともかく引いている人たちはどうなんでしょう。そういう人たちは本当によいのですか。

私の話をきかなくてです。

そんな悪いことを全部、私のせいにして感情的に怒っている人たちなどほっとけばいいのです。それだけ視野の狭い人たちもないからです。(悪いことが全部私のせいだなどありえないでしょう。〔もう少し冷静に考えてみてください〕そういう人たちがどれだけ自分本位か分かりませんか?)

そういう視野の狭い人たちに合わせていては不幸になることはあっても、幸せになることはないのです。

私のいうことをきいている人たちには次々に奇跡が起きています。それが何よりの私のいっていることが正しい証明なのです。

このような時代になりました。もう金儲けや遊びばかりに目が行くのではなく、起きている現象をもう少し真剣に観られたらどうでしょう。

その起きている現象にこそ真実が隠れているからです。

奇跡が起きているのは私だけなのです。その私のいうことをもう少しきかれてはどうですか?

そうすれば本当の幸せが訪れることになるからです。

追伸…今回、布施してくださりありがとうございました。

ホッとしました。またウナッシーさんに何かあってもいけないからです。

去年ウナッシーさんがけがをしたり寝込んだりしたのも、たぶん私に報恩の行為をされていなかったからです。

一昨年まではされていたのに、去年はそれをピタリとやめられました。もちろん、ご事情はあるにせよ、年に一度くらいの布施はされた方がよかったと思います。

それが法をきいている人の最低限の礼儀であるからです。

その礼儀を欠くのなら、当然気づきの現象は現れます。

だから早く気づけばいいのにとずっと思っていたのです。

しかし、そのことをはっきりいうわけにもいきません。(仮に私が「布施しなさい」とウナッシーさんにいって、それでいやいや布施されても、それでは気づきの現象は止まらないからです。法をきかせてもらってありがたいと心から感謝しての布施でないと、気づきの現象は止まらないからです)

そうして今年に入り、この前のスマホが急にバッテリーが上がったというコメントを見て、ますますまずいなと思って半分はらはらしていたのですが(何せこの辺り、もの凄いですから)昨日ですか、布施してもらえて、それでホッとしたと書いたのです。

マァ、はっきりとは書きませんでしたが、それらしい書き方は何度もしています。(布施しなさいみたいなです。〔苦笑〕)

それで今回仕方なくされたということではないと信じます。何度も書きますが、それでは気づきの現象は止まらないからです。

前のように毎月布施される、などということはしなくて結構ですが、せめて年に一度くらいは布施をされてはどうでしょう。

結局、感謝感謝といっているだけでは感謝にならないからです。報恩の行為が伴ってはじめて感謝したといえるからです。

また、そういうことをしない(法に対する感謝がない)ツケは必ずどこかで払わされます。それが早いか遅いか、それだけのことなのです。(この辺りの人たちはずいぶん早いです。法に対して報恩の行為どころか、嫌がらせをしているからです。それでは気づきの現象は次々に現れて来ます)

法を勉強すると誓われた以上、間違ったことをすれば、そのお返しは早くご自身に返ります。(私など悪いことをしたら、その日のうちに何か悪いことが返ってきます)

そのような現象がまた何よりの心の勉強になるのですが、それはご承知のうえ、これからも頑張ってください。

またよろしくお願い致します。ありがとうございました。

(すいません。他の人への示しもありまして、こういうよけいなことまで書いてしまいました。広い心でお許しください)

1コメント

1コメント to “人の意見に耳を貸さない不幸”

  1. ウナッシー2017/01/28 at 2:21 PM

    何故布施をしたのか。それは反省からです。神が何を考えていられるのか、ただそれを形に現しただけのことです。私が今年やらねばならぬことを反省で導かれ気付きの中の一つであり、どれを欠いても前へは進めないことの大事なものなのです。それは私が神に対し形に示さねばならなかったことなのであり、神を想う時には真摯に真剣にならざるを得ない中での行為なのです。前に進むしかないのです。その中でどのような気付きが頂けるのか。その気付きの判断で進めていく、それを先生からご指南して頂いたことなのです。

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