3月 18 2017
愛があるなら悪いことは起きない
本当に呆れますね。
昨日でも夕方、私が帰ってくると、あちこちの家でガラガラ、ドーンとか音を立てて雨戸を閉めています。
一昨日もそんな家がありました。その家のオバちゃんが私の方をジロジロ見ながら雨戸を閉めているのです。(昨日もそんな感じでしたね)
大丈夫ですか?そんな露骨な嫌がらせをしていてです。(どんな悪いことが起きているのか知りませんが)
あのですね。皆さん方は一人として私にいいことをしていないのです。
「何でお前なんぞにいいことなどしなければいけないんだ」ではありません。私に心だけは救われているのですよ。(それは事実ですよね)
私に心だけは救われているくせに、そのお返しが嫌がらせではいいことが起きるわけがありません。そんな恩を仇で返す罰当たりな行いもないからです。(それに一方的に嫌がらせをしているのはそちらではないですか。私が嫌がらせなどしましたか?悪いことをしているだけしておいてよく悪いことを私のせいにしますね。都合よすぎませんか?)
何度もいいますが、自分たちの行いをまず反省されてはどうでしょう。
悪いことが起きる原因はそこにあるからです。(因果応報です。心から感謝して布施でもしてみなさいって。〔何度もいってますけど〕そうしたらいいことが起きますから)
しかし、その家にどういう悪いことが起きたのか知りませんが(または近所で悪いことが起きているのか知りませんが)そういう、これみよがしに私に対して嫌がらせしているオバちゃんたちにもっと愛があるなら、その悪いことは起きなかったのです。
女性の愛は神の愛に通じ、その女性の愛があふれているなら、その家は守られるからです。
私がこのブログに書いている、そのような女性としての役割をそのオバちゃんたちはしっかり果たしているのでしょうか?(百パーセント果たしていないでしょう。果たしていないからそのような悪いことが起きているのです。悪いことが起きることが、女性としての役割を果たしていない、愛を出していない、何よりの証拠なのです)
悪いことが起きたことを私に責任転嫁している暇があるなら、自分が女性としての役割をしっかり果たされたらどうでしょう。
そうすれば少なくとも自分たちに悪いことが起きることはないからです。(だから、悪いことが起きたと私に嫌がらせして来るオバちゃんたちは「自分には愛がありません。女性としての役割をしっかり果たしていません」といっているようなものなのです。かっこ悪いことこの上なしです)
そういう女性の愛があるかないかで、その家の幸、不幸は大きく変わります。
家を守っているのは女(母または妻)とよくいわれますが、それは、そういう部分でもいえるのです。(外の部分は男が守り、内の部分は女が守るということです)
だから夫婦は表裏一体というのです。どちらが欠けても愛が足りなくなるからです。(男は外で破壊の愛を出し女は家で神の愛を出す)
そのような愛があふれた家なら、その家の者に悪いことなど起きません。
この辺りで悪いことが起きていて、そうしてその悪いことをみな私のせいにしている人がたくさんいますが、それは裏を返せば、それだけ悪いことが起きているということは、それだけ愛のない人が多いということであり、もし、自分の子供に何か悪いことが起きた家があるなら、それはその家の親には相当愛がなかったということであり、その原因が何であろうと(私が関わろうが関わるまいがです)子供に悪いことが起きたのは、自分たちの愛が足りなかったせいであって、どちらにしてもその悪いことを人のせいにしているのはお門違いなのです。
自分たちが愛に満たされているのなら、自分たちに悪いことは絶対に起きないからです。
それは釈尊しかり、キリストしかりです。
釈尊やキリストは愛に満たされていられたから悪いことが起きなかったのです。奇跡しか起きなかったのです。
愛が多ければ多いほど奇跡が現れて来るからです。
ですから、この辺りで悪いことをみな私のせいにしている人がたくさんいますが、そういうことをいっている人が、いかに的外れかお分かりいただけると思います。
そういう人たちは自分たちの愛のなさを知らないだけなのです。(だから、最近は子供の自殺など増えていますが、その自殺した原因を、学校やら会社やらのせいにして裁判まで起こしている親がいますが、とんでもありません。そういう子供が自殺したような親は、まず自分の子供に対する愛の足りなさを反省すべきなのです。もし自分が子供に愛をたくさん与えていたのなら、その子供は自殺などせずどのような苦労にも堪えることが出来たからです。子供が親からたくさん愛をもらっているのなら、その子供は自分が死ねば親がどれだけ悲しむのか、それを嫌というほど知っています。では、自殺などするはずがないのです。親の愛に勝るものはないからです)
もう愛を出さなければ不幸になる、そのような時代になりました。
時代が変わって、自分たちの愛のなさが表に現れてきたことをいつまで人のせいにしているのですか?
そんなことをしている暇があるなら愛を出してはどうでしょう。
その方がよほど早くその起きている災いは止まるからです。
追伸…あの国有地格安問題はドンドン広がっていますね。今度はあの理事長を証人喚問されるそうではないですか。(もう徹底的に理事長は悪者ですね)
しかし、ここまで騒がれる前までは、あの理事長と保守といわれる政治家の人たちとはうまくやっていたんでしょうね。(だからあれだけ異例尽くしであったのでしょうし)
それが状況が悪くなると、とたんに手のひら返しです。政治家たちの恐ろしさをまざまざと見せられていますね。(私たち有権者はです)
こういうところでも愛のなさが分かりますが、この理事長が学校をつくるのにあまりに政治家などに頼りすぎた、その結果が、このような不幸を招いているのです。
それもまた自業自得といわざるを得ませんが、しかし、このような最悪の状況であってもです。
もし、あの理事長の奥さんにもっと愛があるなら、これだけ悪い結果は現れていないのです。
あの奥さんがもっと愛を出しているのなら、政治家に対しても、マスコミに対しても、自分たちの学校の生徒や親御さんに対しても、対応は違っていたはずだからです。
そうであるなら、これだけ叩かれることもなかったのです。そのような奥さんの愛が多くの人々を癒したからです。
しかし、あの奥さんはやたらきつくて、普段から誰に対してもきつい対応しかとっていなかったようではないですか。その奥さんの愛の足りなさが、今あの理事長が叩かれている状況に拍車をかけているのです。
どちらにしても、もっと愛があるならこういうことは起きません。
もっと愛ある世の中を願うばかりです。
(そういえば、総理夫人も今一愛がなさそうです。〔日本の最高権力者のご夫人に本当に失礼な言い方なんですが、法でいう女性の役割をどれだけ果たしていられるのでしょうか?〕だから総理もこういう時にこれだけ困られるのです。やはり夫人の愛が足りないからです。総理夫人にもっと愛があるなら、女性推進法など総理はいわれなかったでしょう。〔家に女性がいる大事さが分かられてです〕それが本当に残念です)



人目の訪問者です。

GIGAZINいうサイトに載っていた記事です。
17世紀のフランスの哲学者/数学者/物理学者のブレーズ・パスカルが提案した「パスカルの賭け」は、「神の存在を証明できなくても、神の存在に賭けることは合理的な選択である」というもの。神を信じて生きる人は幸福な人生を送ることができ、もし神が存在しなくても損をすることはないためであり、この考え方は歴史的に確率論の新しい領域を開いたともいわれています。そんな350年も前に生まれた考え方は、「有効的に相手を説得する手法」として現代の心理学者によって支持されています。以上です。
そんなに神を難しく捉えなくても先人が考えた単純な思考で神を思えば良いこと教えれた気がします。そしてそれが切っ掛けで人生が変われば嬉しいと思えるはずですよね。周囲に対し自分が構えないように単純な思考で神をアピールしていける様に変えて行く努力をしようと思います。
さすがに哲学者は神の存在まで合理的にいうのですね。(笑)
しかし、もうこういう考え方は古いでしょう。神の業がすでに目の前に現れているからです。(それはこの辺りだけですかね?)
だから神の存在を認めざるを得ないのです。
無神論の人々も神を嫌でも認めなければいけない時期が来ています。もう堂々と神の存在をアピールしてもよいのではないでしょうか。
それほどの現象がすでにそこかしこに現れているからです。
(私って少しずれていますかね。周りにあまりにいろいろ起きてくるものですからもはや神の存在は当然という気にしかなりません。大丈夫です。そのうちウナッシーさんの周りにもいろいろ起き出すでしょう。そのような現象で神は嫌でも証明されて行くのです)
人に伝える事を想定すると、どうも神はありと言った風に相手の価値観を否定から入ってしまう事を躊躇していました。神を受け付けない事が思い描かれるためと分かりました。それはきっと相手に神を知ってもらわなければならない、そういう頑なな思いであったと思います。だからコメントの記事を見たとき、あーなるほど神を信じてもらわなくても又神を受け入れてもらわなくてもいいんだ。そして、それを決めるのは私ではなく話を聞いた本人なのだと気付いたのです。法話聴くものだけでなく、見ても知るもの分かりました。伝えるという事に今は気持ちがかなり楽になりました。まだまだ知らない自分が在り時間と共に分かって行きそれを反省出来るのかと思うと先が楽しみです。
頑張ってください。