4月 02 2017
本当の信仰とは
ですから、仏壇にしろ(その仏壇にろうそくを灯して線香をあげることにしろ)お経をあげることにしろ、寺に行って仏像を拝むことにしろです。
そのようなことに宗教的な意義はなかったのであり、だから、そのようなことをどれだけやっても、それで奇跡が起きるわけでもなければ悟れるわけでもないのです。
そのような行いは信仰でもなんでもなかったからです。
だいたい、仏壇に毎日線香をあげて祈る人はたくさんいます。それにお寺や神社が好きで、そのようなところをよく回ってお参りする人もたくさんいます。(毎日のように近くのお寺など行って、賽銭を上げてお参りする爺ちゃん婆ちゃんもいますから)
しかし、もしそれが正しい信仰であるなら、そのようなことをしている人たちの中から、奇跡が起きる人がたくさん出て来ないといけませんが、そういう習慣のある人に次々に奇跡が起きているなどという話はきいたことがありません。(この辺りなど、そういうことをしている人にも悪いことが起きています)
このような事実が、すべてを物語っているのです。
残念ではありますが、そのような行いは正しい信仰ではなかったということです。正しい信仰どころか、そのような行い自体、まったく信仰ではなかったということです。(だって、お寺に賽銭を上げてお参りすることは、今風にいえばホテルに行って、そこで賽銭を投げて、ホテルの中に飾ってある写真に向かって祈っているのと同じことなのです。そういうことを信仰とはいわないでしょう)
別にこれまでのことをすべて否定するわけではありませんが、事実を知らなければもう危ない時代になりました。(気分転換でそういうことをするというのは別にかまいませんが、そのような行いは、お蔭もなければ功徳にもならないということは理解しないといけないのです)
本当の信仰をされてはどうでしょう。そうすれば奇跡も起きて最終的には悟りが開けるからです。
信仰とは何もそんな特別なことをしなくてもいいのです。日常生活の中でやれていけることであるからです。
特別な場所に行かなくても、祈りはどこにいても正しい祈りならきかれるのであって(地球自体がすでに神につくられた神殿であるからです)要は心の問題なのです。
その心を正しくするか、しないか、それだけなのです。
その心を磨くことが信仰なのであり、心を磨くことなど、どこにいても出来るのですから、では、普段から自分がその心がよくなるよう行いを正せばいいのです。
そのような心と行いを正すことは日常生活の中で十分やれます。だから私は信仰など、どこでも出来ますと、そのような心と行いを正すことが信仰なのです、といっているのです。
実際にそうであるからです。私はそのような生活の中で次々に奇跡が起きるようになったからです。
その自分たちの生活を、出来るだけ神の心に合わせるということを続けていけばいいのです。その神の心に合わせた生活、それが本当の信仰だからです。
神の心を知るなら、常に神に感謝して祈りなど普通にしますし反省もします。普段の心がけも愛と慈悲の心を持って調和に努め、そうして、このような神の心を伝えようと努力もします。
そのような心と行いの積み重ねが信仰をしているということであり、そのようなことを続けていれば奇跡も起き出すのです。
また、それがまったく出来ていない人を無信仰な人というのです。
普段から神のことなどまったく思わず、神の心を知ろうともせず、自分本位の生活を続けている、そのような人を無信仰な人というのですが、そういう人ばかりでなく、最初に書いたようなことばかりをしている人(仏壇やお寺などへのお参り)そういう人もまた無信仰な人といえるのです。
何度もいいますが、仏壇やお寺などへのお参りは信仰でもなんでもないからです。本当の信仰とは普段の生活の中にあるからです。
それが分かっていなかった。だから熱心に信仰していると思われている人でも不幸になったのです。
本当の信仰とは何ぞやということが分かっていなかったからです。(だから奇跡も起きなかった、みな本当の信仰をしていなかったからです)
これまでの多くの人は、仏壇に毎日祈ることやお寺や神社など行って祈ることが信仰であると思ってきたのです。
だから、それをすればお蔭もあるだろうし功徳もあるだろうと思い込んでいたのです。だから普段の生活は二の次にして、そういうことばかりに(お寺や神社回りに)精を出す人もいたのです。
そういうことさえしていれば自分は救われると思ってです。
しかしそれはまったくの間違いだったのです。そんなものは信仰でもなんでもなかったからです。
本当の信仰とは、その普段の生活を正す、それであったからです。
こうなると現実逃避は出来ませんね。あの信仰をしているといわれている人たちの中にも、そのような神仏の名を借りて現実逃避している人たちが案外多いと思うからです。
私は神仏に使えているのだから、普段の生活がちゃんと出来ないのは仕方ない、などといってです。
しかし、その普段の生活が信仰であるのであれば、普段の生活をおざなりになど出来ません。
ではまず、普段の生活を正す、しっかりする、それから始めないといけないということになります。
その普段の生活の中に神仏は存在しているからです。
本当の信仰とは、仏壇を拝むことでも、お寺や神社にお参りに行くことでもなく、普段からの生活を神の心に合わせて正すということだったのです。
間違った信仰をいつまでもしているのではなく、本当の信仰に目覚めませんか?
そうすれば本当の幸福が得られることになるからです。
追伸…だから、普段から人の悪口ばかりいっていたり、人に嫌がらせなどしている人は悪いことが起きるのが当然なのです。
その普段の生活が信仰であるからです。(信仰の場でそんなことしたらいけません。それでは罰が当たります。〔苦笑〕)
だから普段の生活で愛を出すなら奇跡が起きるのです。それがそのまま正しい信仰となるからです。(何で私に奇跡が起きているのか分かりますか?正しい信仰をしているからです。〔笑〕)
愛とは相手の気持ちになって考えることをいうのです。
それを実践されませんか。信仰の場(普段の生活の場)でです。
そうすれば奇跡は起きて来るからです。



人目の訪問者です。

私の母もいよいよ特養に入ることになりました。母はもう数十年前に旦那を亡くし独り暮らしをしていました。休みには子供である私はなるべく淋しい気持ちを癒そうと顔を出したり買い物にも行っていました。しかし認知症が出始めてから最近は徘徊までのするようになっていました。これまで私は母が嫌いであり心も穏やかではありませんしたが、このブログと出合い改めてこれまでの反省をし育ててくださった感謝もしてきました。その母の介護認定も3級になり特養受け入れの審査も高得点で最優先されました。それで母はもう認知も進んでいるのですが、入居するこの特養にここ半年くらいシュートステイで慣れるようにしてあげたこともあり入居を喜んでくれました。。独り暮らしをしていた時の悲しい顔を思うと本当に喜んでくれているのでホットしました。本当は子供である私達がお世話すべきでしょうが家庭を持つと自由度が減るわけで介護も厳しくなってしまいます。それで今回の様になったわけですが、一番良かったことは母が喜んで特養に行ってくれることでした。多分本人は沢山の人がいて職員が孫の様に見えるので嬉しいと思っているのかも知れませんね。
ウナッシーさんのお母様に対する態度が正しかったのでしょう。それでそのような順序がついたのです。
お母様がその特養で楽しい余生を過ごされるといいですね。