8月 15 2017
おかしな信仰
昨日のコメントにも書きましたが、今年のウナッシーさんなど見てもらえれば分かると思いますが、この法を実践して感謝の心で布施されると次々に奇跡が起きてくるのです。
こういうのを「お陰がある」というのであって、どこどこのお寺が霊験あらたかだから、そこにお参りしたからお陰があるとか、どこどこの有名なお寺でお参りしたからパワーをもらったとか、そういうことをいっていても、後で奇跡が起きてこないようでは何のお陰もないのであって、そういうあちこちのお寺や神社に行ってお参りすれば、それでお陰があると思い込んでしまう、このような無節操な信仰の仕方が一体いつから始まったのか、ちょっと書いておきましょう。
正法誌の1979年十月号から抜粋します。
<3、祈祷寺、流行仏
徳川幕府は1631年(寛永八年)宗教統制の必要上、新しく寺をつくることを禁止する、新地建立禁止令を出した。幕府の保護を受けられない寺が、寺の経営を成り立たせるためには祈祷寺としていろいろの祈祷(きとう)をして祈祷料をあげる以外になかった。檀家がないから、いきおい多数の人を集めて、その霊験を説くことに熱中し、また霊験あらたかだとして諸仏菩薩などの像を安置して拝ませてお賽銭をあげさせる以外になかった。
本尊の外に、不動明王、勢至、観音、薬師、弁天、水天、聖天、大黒天、愛染明王など、とにかく何でもかんでも寺の境内に祭って収入をあげることを考えた。そうして縁日をこしらえた。八日は薬師、十五日は阿弥陀、十八日は観音、二十四日は地蔵、二十八日は不動明王の縁日として開帳して人を集めてお賽銭をあげさせる。正月と盆の十六日は「やぶ入り」と称してお参りをさせる。
縁日をひらいて開帳しても足を運ばない人からも金を集める手段として考え出されたのが「お札」を配るということであった。「お札」をはってそれを拝むと、直接、お寺や神社に足を運ばなくても足を運んだのと同じことであるというのである。
現世利益を願い、苦しみから逃れたいと思っている民衆に対して、坊さんたちは、仏教とは関係のないバラモンの神々である帝釈天、弁財天、吉祥天、水天、聖天などを拝ませたことが、ますます仏教というものを分からなくさせてしまった。
江戸時代の民衆の「おかげがあれば見境いなしに何でも拝む」という江戸時代独特の信仰は、今でも続いている>
この園頭先生が書かれた正法誌を読まれれば、お寺や神社に行ってお参りしても何のお陰もないと分かるはずです。
なぜなら、このようなことは(いろいろな寺などに行ってお参りさせることは)宗教的な意義があって始まったことではなかったからです。
仏像を拝ませたり、縁日などと称して人を集めたのは、その寺の生活のために始めたことであり、ただの商売であったからです。(人によっては衝撃の事実でしょうが、しかし、事実は事実です)
宗教的な意義がまったくなく、商売でしているものにいくら祈ったところでお陰があるわけがありません。
だからそういうところにいくら行って祈っても、何の奇跡も起きないのです。まったくお陰がないからです。
それをあるように見せているだけなのです。その寺の生活のためにです。
だから現在の寺は(はっきりいうなら)詐欺団体であるということです。そうして、そのようなところにお陰があると思いこんでお参りに行っている人たちは、詐欺に騙されお金を取られている(お賽銭など出してです)哀れな被害者であるということです。
今の坊さんたちが、このような事実を知っているのかどうかは知りませんが、知らずにやっていたとしても悪いことは悪いことです。(寺が、このような宗教とは縁もゆかりもない商売を江戸時代から急に始めたのですから)
そこに来てくれた人を本当に救いたいのであれば、こんなことをやらせているより、自分が説法されることです。
本来、坊さんとは、人の心を救ってその代償として布施をもらって生活するのが、正しい坊さんのあり方であるからです。(釈尊やキリスト、皆そうです)
そういう点でいうなら、私がしていることこそ本来坊さんがしなくてはいけないことなのであり、その坊さんたちがしなくなった本当の正しい信仰の仕方を実践しているのが私なのであり、だから、私のいっていることを実践すると奇跡が起きるのです。
私がしていることこそ、正しい信仰の仕方であるからです。(物に祈るのではなく〔こういうのを偶像崇拝というのです〕正しいことの実践)
とはいえ、別に私が特別なことをしているわけではありません。昔から坊さんたちがしていたことをしているに過ぎないのです。
今の坊さんたちが(坊さんたちだけではありませんが。今の宗教家といわれる人たちがです)大きな間違いをしているだけなのです。
おかしな信仰をいつまでも続けていても何のお陰もありません。
正しい信仰に目覚めませんか。
正しい信仰を始めない限り、本当に救われる道はついてこないからです。
追伸…あちこち回ると本当によく分かります。私のブログを読んでいる人たちの多さがです。(昨日でもそうです。「このブログを見ている人がコロコロ…」といって回っていたら、ゴロゴロ私のブログを見ている人が見つかりました。この脅し文句は〔本当の脅しかどうかは知りませんが〕私のブログを読んでいる人を見つける分には本当に効き目があります。〔笑〕)
しかし、これだけ多くの人が私に心を救われているにもかかわらず、感謝の変わりに嫌がらせをし続けていたというのですから呆れますね。
昨日も、そういう話をするといやらしそうな顔をして歩いていく人がたくさんいました。(ほとんどの人がそういう態度ですね。〔少しは良心があるようです〕怒り出す人もいますが、そういう程度の低い人は十人に一人くらいです)
それで、そういう人たちは、ただいやらしそうな顔をして歩いていくだけでそれでよいのですか?いまだ私に心を救われ続けていてです。(そういう人の中にも、まだ、このブログを読んでいる人も多いんでしょう)
布施くらいされたらどうですか。それだけ罰当たりなことを続けていたのだし(というか、心が痛みませんか?私に対してです)どちらにしても、それくらいの愛の行為は行わないと、そのままではもうよいことは起きないからです。
せっかく法と巡り合う幸運を得たのです。少しくらいの愛の実践は行うべきでしょう。
それに東京の人たちもそうです。
何か東京は今日で十五日連続の雨だそうですね。八月にこれだけ雨が降るのは四十年ぶりとのことですが、前に発表された天気の長期予報では今年は記録的な暑い夏となるということでした。(だから、その暑さのせいで景気もよくなると期待されていました。それだけ暑ければエアコンなどもよく売れて、ビールなどの飲食も、そうして海や山やプールなどにも人がよく出てです)
その予報が大はずれして(まったく真逆の天気ですから)売れるものも売れず、人も出てこず、また農家の人たちも大迷惑している(夏野菜がこの天気で不作でです)その原因はすべてこのブログを見ている東京の人たちにあるのです。(それはもう自覚のある人も多いのではないでしょうか。だからテレビのニュースなど出ている人は「今日も天気が悪いですね」というのではなく「この天気が悪いのは私のせいです。どうもすいません」と謝らないといけないのです。〔苦笑〕)
だから東京の人たちも心を入れかえ少しくらいの報恩の行為はされるべきなのです。
すべては法を教えてもらっていながら、報恩の行為をしようとしない人々が原因でこのような災いは起きているからです。
正しい信仰とはこういうものなのです。(必ずお陰があるのです。よい方も悪い方もです)
本当の神の教えを教えてもらったのなら必ず(必ずです)報恩の行為はしないといけないのです。
それが教えてもらった側の義務であるからです。
それをしないから(その義務を果たそうとしないから)悪いことが起きてくるのです。(それも、もうとっくに気づいている人が多いと思いますが。気づいていてやらないのです)
その悪いことは、自分たちの間違いに気づくまで続きます。(その間違いを直すまで続きます)
早く気づいてください。(早く直してください)法を教えてもらっている人たちが間違いに気づかなければ(間違いを直さなければ)災いはいつまでも続くからです。



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