8月 17 2017
続、おかしな信仰
今日も無理してやっています。(いつもの嫌がらせです)
昨日は休み明けでした。どうせやってくるだろうと思ったら案の定、いろいろちょっかいをかけてきたものですから、ずっと祈っていたら、その後いろいろ起きたようでした。
社内で大騒ぎをしていましたから。(夕方も帰って来ると怒っていましたから)
そういうバカの相手もほどほどにして、まだ時期も時期ですし(お盆)もう少しおかしな信仰のことを書いておきましょう。
同じく正法誌の1979年十月号より抜粋します。
<女の信仰
お産は女の大厄であるという言葉は、今でも地方に行くとよくきく、女が無事出産をして、無事に育児することが出来ることは女にとっては最高の喜びであった。こうした女の心にこたえるようにしてつくりだされた信仰が、子供がお腹の中にいる時は地蔵様が守ってくださるという子育て地蔵の信仰であり、また無事出産し育てることが出来るようにという願いによって生まれたのが、子安観音、子育て観音の信仰であった。また、子供が授かりたいという人のためには子授け観音がつくられた。また「間引き」と称して、生まれるとすぐ窒息死、圧死された子供の霊を慰めるために、女の人たちは悲しい思いを持って、小さな地蔵を刻んで霊を慰めた。便所神はきれいであることを喜ばれるから、便所をきれいにするとお産が軽いという便所神の信仰もあった。
当時の人にとっては、お陰があるものであれば信仰の対象は、神であろうが仏であろうが、石であろうが、何でもよかったのである。日本全国津々浦々にある小さな祠は、庶民のささやかな幸せを願う心から生まれたものである。
5、菩提寺
先祖の供養をすることを目的としている菩提寺は、寺領を取り上げられても一変膨張した寺の経営を、急に縮小することは出来なかった。本来なら縮小しなければならないところであるがそれをしなかったばかりか、さらに檀家から金を取る方法を考えた。それが戒名に段階をつけることと、年忌供養の回数を増やすことであった。
戒名をつけるという風習はインドにはない。まして、金額の多い少ないによって戒名が違うということもない。値段の高い戒名をつけたからといって、亡くなった人がそれだけ救われるということはない。位牌は中国の儒教の影響でつくられたものである。死後の年忌供養もインドにはない。身内の者一同が一緒に集まって故人を偲び、生きている身内がそういう機会に親しみを図るということは、日本独特のうるわしい風習ではあると思うが、一回忌、三回忌、十三回忌、三十三回忌、五十回忌などの年忌供養をしなければいけないとは、お釈迦様は教えられていない。特定の日に、特定の人が坊さんに頼んで廻向することは、お釈迦様の意志に反すると親鸞上人はいっていられる。
「親鸞は、父母のためとて、一変も念仏したること、いまださふらはず」と歎異抄にのべられている。お釈迦様はその人の死後の運命は、その人の生前の行為によって定まるもので、他人が関与することは出来ない、まして、僧が死者の葬式をしてはならないといっていられます。
仏教が葬式仏教であり、観光仏教であるといわれるようになってから久しいにもかかわらず、仏教界自体の中からは、いまだに改革の声はあがってきていない>
園頭先生が書かれていますように現在行われている信仰は、人の弱みに付け込んだり、情に訴えたり、自分たちの金儲けのために行われているものがほとんどで、本当の正しい信仰ではないのです。
だから、そういう信仰をいくらしても奇跡らしい奇跡が起きないのです。
釈尊は僧が死者の葬式などしてはいけないといわれていたのです。(釈尊在世当時のインドでは、僧が死者を埋葬するのではなく在家の信者が死者を埋葬していました)
僧は亡くなった人を救うのではなく、生きている人を救わないといけないからです。(生きている人を救うのなら、必然的に亡くなった人も救われていくのです。亡くなって地獄に堕ちている人など生きている人を見本にするからです。だから生きている人が立派な生き方をしていれば、それを見習って地獄に堕ちている霊も自分たちの生前の行いを反省し救われていくのです)
だから、いま亡くなった人にお経を上げている坊さんなど間違ったこと(意味のないこと)をしているのであり、まして戒名にせよ、位牌にせよ、年忌供養にせよ、坊さん側の商売以外の何ものでもないのであって、ああいうことをしなくても、天上界に行ける人は行けるし、地獄に堕ちる人は堕ちるのです。
死後、天上界に行くのも、地獄界に行くのも、すべて、生前の自分の行い次第なのであり、死んだ後、坊さんが何をしようが亡くなった人には一切関係ないということです。
今年の盆を境に正しい信仰に目覚められてはどうでしょうか。
それが一番、救われていく道であるからです。
(正しい信仰をしているから祈ると現象が現れるのです。お分かりですか?どこかの会社の皆さん…ずいぶんやけくそでキレいているようですが、だから悪いことが起きるのです)
追伸…東京は今日も雨のようですね。
今日で十七日連続の雨ですか…これほどの天気が現されているというのに、誰も神の心に気づかない(気づこうとしない)というのですから驚きますね。
その東京の天気などもです。来週からよくなるようなことを天気予報ではいっていますが、そういうのを信じてもあまり意味はないですよ。
別に天気予報が当たらないといっているわけではありませんが、天気など、このブログを読んでいる人たちの行い次第でいくらでも変わるからです。(よい方にも悪い方にもです)
東日本は日照不足で雨が降り続き、西日本は猛暑、そうしてところどころでゲリラ豪雨(しかも凄まじいです)こんな極端な天気になっているのは、すべて(すべてです)このブログを読んでいる人たちが(法を伝えてもらっている人たちが)法に協力しようとしないからです。
実際、二、三ヶ月前に出ていた天気の長期予報がまったく外れているのです。(その長期予報では今年の夏は記録的な猛暑となりかんかん照りが続くといわれていましたから。東日本など大外れです)長期予報がこれだけ外れるのも珍しいでしょう。
最近の天気予報はわりと正確であるからです。その天気の長期予報を大外れさせたその原因は、もちろんこのブログを読んでいる人たちであるということです。
台風五号もそうです。すべて、このブログを見ている人たちが法に協力しなかったからこれだけの不幸が起きたのです。
皆さん方が不義理を繰り返しているため、日本中で災いが起きているのです。
何度もいいますが、法を教えてもらうということはそういうことなのです。大きな責任がついてくるのです。
自分さえよければいいなど通用しないのです。そんなことを法を知らせてもらった人がしていたら、法は拡がらなくなってしまいます。
それは一番天が(神が)望んでいないことであり、そういうことを多くの人がしているから、これほどの天気を現されるのです。(天気ばかりではありませんが)
法を伝えられた人は、それなりの責任は果たさないといけないのです。
布施が集まらねば法が説けなくなります。布施をお願いします。皆さん方が、それを無視しているからこれだけの不幸が起きているのです。
何度もいいますが、布施してください。お気持ちだけで結構ですから。私は決して無茶なことをいっているわけではないのです。
当たり前の筋をいっているだけなのです。
(どれだけ不幸が起きたら分かりますか。このようなひどい天変地変が法を伝えてもらっている人たちのせいであるとです)



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