11月 20 2018
本当の愛
前回、間違った信仰のことを書いたのですが、お経を上げるだの、お参りするだの、仏教系の信仰ばかりでなく、ではキリスト教はどうなのでしょう。
キリストの教えであるキリスト教も、今いわれているキリスト教と、この正法神理から見たキリストの教えとではどう違うのか?
その違いを書いておきましょう。
正法誌の1986年、五月号より抜粋します。
<高橋信次先生のことば
愛
愛とは何かというと、大抵観念的、抽象的に、或いは幻想的に考えがちだ。
近頃は、肉体的、性的行動が愛だと思っている者も相当にいる。愛とは何かというと、助け合うことであり、他を生かすことである。
この地上界は自分独りで生きることは出来ない。常にいろいろな複数の関係の中で相互に働きかけ合いながら他を生かすことによって成り立っている。
地上界(現れの世界)は意識界(あの世)とは異なり、相互作用によって生かされていることは否定しようとしても否定することは出来ない。
他を生かすとは自分の身を他に供養することである。私たちは動物、植物、鉱物を口に入れることによって生きている。つまり、それらの身の供養がなければ、私たちは一日として生きることが出来ない。魚や野菜、飲料水は、これみなことごとく生命を持ち、私たちにその身を投げ出している。私たち人間関係についても、様々な職業、仕事を通して他を生かしている。
この地上に混乱が絶えないのは、これに欲望がからみ、欲に心が奪われるからである。他を生かす、助け合う愛の行為に心が定まれば、明日にでもこの地上は仏国土となろう。
愛というとイエスがすぐ浮かぶ。イエスが十字架にかかったのは、愛の行為を示すためであった。他を生かすための死は愛の極限だからである。
イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。愛は慈悲という神の心を行為によって現すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった。
死は間近に迫ったが、それをさけようとすればいくらでもさけられた。だが、イエスはあえてそれをしなかった。愛の証はその身を供養(死)することによって果たされるからだった。
十字架の人となったときイエスは、罪人を含めて地上の人たちに、神の恵みと赦しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信じる者は救われるとなってしまった。
イエスを信ずるとは、愛を信ずることである。愛を信ずれば、愛の行為がなければ観念の遊戯になってしまう。愛は行為だからである。胸にいくら十字を切ったところで救いにはならない。イエスの行為をみればわかるはずである。また、信は念を生み出し、念は行為につながってくる。
それゆえ、愛を信ずるならば、行為が生まれてくる。行為のない信などというものはないのである。
解 説
愛とは全面帰投である。相手を生かすためには自分のすべてを相手に投げ入れて、相手と一つになり、相手の喜びを自分の喜びとして自分がなくなることである。
愛とは自他一体の感情ともいわれる。自分と他との区別がなくなり、自分が相手であり、相手が自分であり、自分と他とが一つの思いになることである。
(中 略)
キリスト教信者はキリストの肉体の復活を待望しているが、そのことよりも大事なことはキリストが説かれた本当の「愛」の意義の復活である。
「イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。
愛は慈悲という神の心を行為によって現すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった」そのためキリストは逃れようとすればできられたのを磔(はりつけ)にかかられたのである。そのことによって「愛の真義」を分かってもらいたいという最後の願いであった。
キリストは「わが軛(くびき)は汝らを安らかならしめん」といわれた。わが教えを信ずれば心が安らかになるというのである。人の心を安らかにするのは、憎しみや怨みではなくて「愛」のみである。
愛は全面帰投であり自他一体であるから、愛とは相手と一つ心になって相手を生かし相手のためになることである。愛という言葉を使う時は自分がなくなって自分も相手にならなければいけないのである。自己愛、利己愛、自我愛が、愛という言葉を使っていても失敗に終わり不幸な結果を生むのは、自分のために人を奉仕させようとする愛とはまったく正反対の心があるからである。
「十字架の人となったときイエスは、罪人を含めて地上の人たちに、神の恵みと赦しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信ずる者は救われるとなってしまった」と書かれているが、そのように喧伝したのはパウロである>
以上、正法神理から見たキリストの愛を書いたのですが、ずいぶん違うのではないでしょうか。
キリスト教でいっている愛と法(正法神理)でいう愛とではです。
今のキリスト教はそこまで深く愛(全面帰投)ということをいっているのでしょうか?
キリスト教の信者の人たちの中には、そういっているという人もいるかもしれませんが、その人がいう全面帰投の愛とは、神に対する愛であり、それはすなわち自己愛にすぎないのです。
「神(キリスト)よ、我を救いたまえ」という自分が救われたいがためにキリストに全面帰投しているだけであり、それは正法誌の中にも書かれてありますが(自己愛、利己愛、自我愛は失敗に終わるとです)それではダメなのです。
自分ではなく誰に対しても、そのような愛を持たなくてはいけないのであり、だから、キリストは、自分が十字架にかけられるということを知っていたにもかかわらず(天上界から知らされていたからです。だから、キリストは逃げようと思えばいくらでも逃げることが出来たのですが)あえて逃げることはせず十字架にかけられたのです。
神の奇跡を現し、多くの人々を癒されたキリストが十字架にかけられるのなら、その衝撃は世界に伝播するからです。(インターネットがなかったこのような時代といえどもです)
そうなれば、キリストが説かれた教えも同じように伝播されていきます。
自分の教えが世界に拡がるのなら、多くの人々が救われるとキリストは知っていられたため、あえて自分の身を捨てられたのです。
自分の教えを知って救われていく人々のため、自分の身を供養されたのです。
そのキリストが思われた通り、今日ではキリストの教えは世界中に拡がり、どれだけ多くの人がキリストの教えにより救われたかしれません。
これこそ究極の愛であり(世界中の人々のため自分の身を供養する〔神に捧げる〕)このようなキリストの究極の愛(愛の真義)を、キリスト教の人たちは学ばなければいけないのです。
それにもかかわらず、今のキリスト教の人々は、キリストが十字架にかけられることにより、全人類の罪を背負った。だから、キリストを信じる者は救われる、などというパウロの言葉をそのまま信じ、本当のキリストの愛に気づかずにいるのです。
キリストが十字架にかけられることよって全人類の罪を背負ったのなら、それ以降の人々は、苦しむ人が出てこなくならなければおかしいはずなのに、キリストが十字架にかけられた以降も苦しむ人はたくさん出てきています。
そうして、そのキリストを信じているはずのキリスト教の信者の中にも、苦しむ人が出ているのに、キリストが全人類の罪を背負っただの、キリストを信じれば救われるだの、どう考えても、そんな教えはおかしいと、間違っていると、分かりそうなものですが、何でそれがいつまでたっても分からないのでしょう。
キリスト教の人々はです。
このようなバカげたことは、すべてパウロがいったことであり、キリストがいわれたことではないのです。
そこを間違ってはいけないのです。
本当にキリストがいわれた言葉と、パウロがいった間違った教えがごっちゃになっているのが現在のキリスト教であり、だから奇跡が起きないのです。
正しい教えと間違った教えが混ざっているからです。(それは今の仏教も同じですが。釈尊が説かれた正しい教えと、その後の弟子たちが説いた間違った教えがごっちゃになっています)
だから、正しい教えを学ばないといけないのです。(正しい教えとは、本当に釈尊がいわれたこと、キリストがいわれたことだけを実践している教えということです)正しい教えを学ぶなら、確実に奇跡は起きてくるからです。(それが私が説いている教えです)
キリストの教えを学ぶなら、キリストの真の愛を知らないといけないのです。
愛の真義を知らないといけないのです。それこそ、キリストが自分の身を供養されてまで人々に伝えたかったことであるからです。
これまでの宗教と、私が説く正法神理はこれだけ違います。(同じ愛を説くだけでもです)
「この時代、もうこの教えを学ばないと救われない」といっている私のいうことが少しはお分かりいただけるでしょうか。
(この正法の世は、それだけ愛深く、慈悲深くならないと救われないということです)



人目の訪問者です。

今月から仕事にも復帰して暫く振りに日常生活を送ってます。その中にあって「我は神の子として祝福された道を歩むのである」という想いを持って復帰した日常生活の中では、やはりどうも私の感覚がおかしいと思えるのです。いつも心の中は「この先は祝福されたもの」という想いとなるのですが、自分で解釈するに、この先の想いとは遥か未来のような気がしているのです。このどこがおかしいのかと言えば、普通自分の老後であるとか家族の問題、自分が障がい者であり雇用の問題等々の現実的な問題も抱いて良さそうと思うのです。これはやはり偏り過ぎた心の問題なのでしょうか?日々神に感謝し反省を行い、家族には困ったことがあれば共に考え、職場の方には障がい者として配慮を受けた分を返さなければと真摯に取り組むなど、感謝しながら言葉だけでなく行動も心掛けています、そんな毎日の中で先のことが疑問に思えたのであります。
この教えを勉強して実践していけばよいことしか出てこなくなります。
そういう心でいられるのなら、その通りのことが起きてきます。気楽な考えとかそういうことではなく、そうならないといけないのです。
常に心に祝福の考えしかなければ、その通りのことしか起きてこないからです。
心配事が浮かんでこないというのであれば、それは正法神理をよく勉強していられる証拠ではないでしょうか。
これからもその調子で頑張ってください。