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11月 22 2018

順 序

10:40 AM ブログ

本当に道路がすいていますね。

昨日もそうでしたし、一昨日など松葉公園の辺りを歩いていましたが、道路はガラガラでトラックなどたまにしか走ってこないのです。(普通車に比べて二~三割どころではありませんでした)

いつも行くところと違うところを歩くと道路のすき方が増しているのがよく分かります。もう周りで歩いている人たちもドン引きでした。(なんせ、そこはトラックで一杯だった道路ですから)

本当に恐ろしいことが起きているのですが、この辺りの皆さん(釈尊とキリストが説かれた教えだけを純粋に説いている)この本当の神の教えを勉強しなくて大丈夫ですか?

このままでは、そのドン引きしている人たちまでいなくなってしまいそうであるからです。

この辺りの運転手連中はどうも次々に神隠しにあっているようだからです。(何でこれだけ車が減っていくのかよく分からないんですから、これはもう神隠し以外の何ものでもないでしょう)

神隠しにあっているのなら、それを防ぐには、本当の神の教えを勉強し行う以外ありません。早く心変わりしてくれることを願うばかりです。

そういえば前回抜粋した正法誌の中に、もう一つ面白いエピソードが書かれてありますので、それも抜粋しておきましょう。

その面白いエピソードとは、園頭先生とあの「雨ニモ負ケズ」の宮沢賢治氏との話です。

同じく正法誌の1986年、五月号より抜粋。

<私の青年時代の一つの目標は、宮沢賢治先生の「雨ニモ負ケズ」にある人間のようになることであった。

雨ニモ負ケズ

風ニモ負ケズ

雪ニモ

夏ノ暑サニモ負ケヌ

丈夫ナ身体ヲ持チ

欲ハナク

決シテ イカラズ

イツモシズカニ

笑ッテイル     以下略

私はこの詩をはじめて読んだ時、まるで俺のことをいっているみたいだなと思ったものである。そう思ったことがいつか宮沢先生の生地に行ってみたいと思うことになったのであるが、それには昭和十二年から二十年までの戦争を経験し、生長の家の講師になることによって達成されることになったわけである。昭和四十八年一月、高橋先生のことを知って、三月、当時のGLA関西本部に行った時、事務所の机の上に「雨ニモ負ケズ」の詩を書いた置物があり、幹部の自宅に行ったらそこにもあった。どうして関西本部の人たちはこの詩を愛しているのだろうかと思っていたら、それは高橋先生が「宮沢賢治という人は菩薩界の人ですよ」といって「雨ニモ負ケズ」の詩をすすめられたということであった。

その話をきいて、そうであれば自分が青年期、この詩に心を魅かれても当然だったのだなと思うことであった。

当時、生長の家の花巻の幹部の方が賢治先生の弟の清六さんと昵懇(じっこん)で連れて行ってくださったのであった。賢治先生の話をしているうちに、話はその日の新聞に載っていたことに移って行った。丁度その日の新聞に、菊池寛先生の未亡人と出版社との裁判問題が載っていた。菊池寛先生の本の再版について、出版社が未亡人にいった冊数よりもたくさん部数を印刷して、印税をごまかした、というものであった。その記事を見て清六さんが、これはきちんと書類で契約しないで、口先だけでやるからこういう問題が出てくるんですよ。私は一々念を押して契約するから、兄の出版物についてトラブルがあったことは一度もありませんといって、自分がそうだったのはなぜであるかを話された。

中学三年生の時「人生」ということに疑問を持って、街はずれにある禅寺に話をききに行った。そうしたら和尚さんが次のような話をされた。

「旅の僧があって、あるところでやっと、にぎりめしの布施にありついた。腹が減っていたので、ガブリと嚙みついたら、そのとたんにうんこをしたくなった。うんこをこらえながらにぎりめしを喰ってもうまくないし、さて、どっちから先にしようかなと思ったが、どうせどっちみちやらなければならないことだから、別々にやるよりも一緒にやってしまえと、便所にしゃがんで、一方では出しながらにぎりめしを喰った。ところがふとしたはずみに、そのにぎりめしがすとんと便壺に落ちてしまった。「しまった」と思ったが、そこは座禅をやっていただけのことはあって悟りが早かった。」

(やあ、どうせどっちみちあそこに行くんだから、こっちの方が早さばけでいいわい)

そういう話をして、その和尚さんいわく、

どうせどっちみちあそこに行くには間違いないが、しかし、自分の腹を通さずに、ストレートに便壺に行ってしまったんではわが身がもたんのである。

すべて物事には順序がある。

この頃の若い者は、やれ歌手になりたい、やれ野球選手になりたいなど、結果だけは一生懸命に思う。ごはん一つ炊くにしても順序があるのであって、順序を間違えたらごはんにならないのである。

良識を持った人、常識のある人とは、ものごとの順序をよくわきまえている人のことである。歌手や野球選手になるには、まず自分にその才能があるのか、そんなことも考えずに能力もないくせにただやたらに結果だけを求めたがる。

さて次は、では現在からどのようなことをしたらそうなれるのか、目標に達成するには今から何を、どういう順序でやらなければいけないのか、目標に達成するまでの途中の順序方法をよく考えなければいけない。その順序方法が間違うと目的は達成できないのである」と。

ですから私は兄の本を再版発行する時は、ちゃんと契約書をつくって、この本の再版が何冊、その印税がいくら、支払い方法はこうでと、一つ一つ確かめて契約するから一ぺんも出版社との間でトラブルを起したことはありませんという話であった。

思うことは具体的でなければならないという話の時に、私はよくこの話をするが、思うことが実現しないのは、その思っていることが実現の可能性のないものであるか、あったとしても具体的な実現の努力が足りなかったからである。

たとえ実現の可能性のあるものであっても、思ったからといってすぐそれが実現するものではない。なにごとも実現するには時間がかかる。簡単なものはすぐ出来るが、むずかしい大きな問題になればなるほど時間がかかる。

(中  略)

「こうありたい」「ああなりたい」という目標を思うことは一回でよろしい。朝から晩まで、来る日も来る日も「こうありたい」「ああなりたい」と思い続ける必要はない。思い続けなければならないのは、その目的、目標を実現するためには、どういうことを、どういう順序でしなければならないかということである。何ごとも、順序が一つ狂うとものごとは実現しないのである。

すべてのものごとが実現するには、それを実現させる順序方法がある。それを真剣に思わなければならない>

物事を行うには、順序が大切であるということを園頭先生は書かれているのですが、そのような何か行う時の順序もたしかに大切なことなのですが、いま現在の日本は神から大変な順序をいただいているのです。

その神からいただいている順序を無視して自分のことばかりしていて本当に大丈夫なんでしょうか?

日本の人々はです。

だから、これほどひどいことが起きているのです。多くの人が神からいただいている順序をまるっきり無視しているからです。

その神からいただいている順序を正しく書いているのは、ここに書いている本当の神の教えだけなのです。

だから、ここに書いていることに従う人には奇跡が起き、逆らう人には災いが起きているのです。

この教えに逆らう人があまりに多くて凄まじいことが日本に起きています。

神からいただいている順序は絶対に無視してはならないのです。

追伸…段々、このパソコン、ブログを書いている時に文章が(勝手に)とんでしまうことが増えてきました。

壊れかけているのでしょう。

もう一つのパソコンも壊れているし、これでこのパソコンまで壊れたら、法を伝えることが出来なくなります。

これだけ激しい現象がこの辺りで現れてきたのも道理でしょう。法が説けなくなったら、何が日本に起きてくるかしれないからです。(そういえば、このように車が減りだしたのも、私がしばらくブログを書かなかった時からでしたね。法を説かなくなれば〔全国的に〕このようなことが起きるということを暗示しているのかもしれません。〔汗〕)

いい加減、このブログを読んでいる人たちは(本当の神の教えを伝えられている人たちは)布施くらいしていただけないでしょうか。

布施が入らないとパソコンも直せずブログも書けなくなるからです。

ブログが書けなくなるなら、日本に起きる現象は、きっとこの程度ではすまなくなるからです。(恐)

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