12月 16 2018
徳の足りなさ
昨日は朝から出て行って、金山の方から瑞穂運動場の辺りまで回っていたんですが、皆さん同じような態度の人ばかりでしたね。
「このままでは本当に滅びますよ。もう心を入れ替えたらどうですか?」とか「本当の神の教えをいつまでも無視していて大丈夫ですか?車がドンドン減っていますよ」とか、いって回ったんですが、無視しているか、キレ出すような人たちばかりで(こういう人たちはもう怖くて仕方がないのでしょう)まともに話をきく人などいなかったですね。
この車がガラガラの状況では(また昨日は土曜日で一段と道路がすいていましたから)私の話を真剣にきくなら、もう頭を下げるしかなくなるからです。
それだけは嫌だという人ばかりです。(苦笑)それではまともに私の話はきけないでしょう。
とはいえ、今のまま突っ張り続けるなら、そういう人がドンドンいなくなっているのです。
もう突っ張るのも限界にきているのではないですか?特にトラックなど激減も激減、本当に減っているからです。
私が見ていないところで、頭を下げる人もずいぶん増えてきているようです。(なんか、そんな感じですよ)
何で、見てないところで頭を下げているのか意味が分かりませんが(見ていないところでも、一応そういう態度を取っておけば、天から感謝していると思われるとでも思っているのでしょうか?)そういう態度はあまり意味がありません。(横柄な態度よりはいいという程度です)
よい態度を取るなら、堂々とされたらどうでしょう。その方がよほど徳になるからです。
釈尊在世当時のインドの人々は坊さんを見ると布施をするという習慣がありました。
その当時は、どれだけ貧乏な人でも(それこそ今日、明日の食べる物に困るような人たちでさえです)自分の食べる分がなくなっても、坊さんが歩いているのを見ると、その食べ物を坊さんに布施するという人までいたのです。
当時のインドの人たちは、それだけ坊さん(神の教えを説く人)を尊び敬っていたからです。
まあ、そこまでしろとはいいませんが(苦笑)少しくらい、この当時のインドの人たちを見習ったらどうでしょう。
そうすれば、起きている悪いことも収まってくるからです。
これだけ悪いことが日常茶飯事に起きているということは(こういう言い方も変ですが、これだけ悪いことが起きている国は〔天が天罰をくだしている国は〕日本くらいでしょうから)その国の人々が、相当、徳のないことをしているからです。
では、徳になることをしないといけないということになります。
そうしないと、その国に起きている災いは(なんせ、今年の漢字まで「災」ですから)止まらないということになります。
では、やるしかないのではないですか。その国の人、一人一人が徳をえるようなことをです。そうすれば、その国に起きている災いも鎮まってくるからです。
その国の人々のあまりの徳のなさが、そのような多くの災いを招いているからです。
その徳をえる一番の方法は、神の教えを説いている人に布施するということです。
それが一番徳になります。
それはそうでしょう。本当の神の心を伝えている人に布施などすれば、その人が一番、神のことを分かっているということになりますので、その人に布施するということは、神にそのまま布施することと同じであるからです。
では、それが一番徳になるでしょう。それは神に直接布施するのと同じことであるからです。
それなら、神社やお寺、仏壇に供え物や布施をすればよいではないか、と思う人もいるかもしれませんが、それは意味がありません。
間違った信仰に供え物や(だいたい、この供え物ということがすでに間違いです。生きていない人に供え物をしたところで意味がないでしょう。それを食べられるわけではないのですから。本来は、供え物は生きている人に食べ物の布施として与えないといけないのです)布施をしたところで、徳になるわけがないからです。
だから、そのような間違った信仰をしている人たちにもボンボン災いが起きているのです。徳にならないことばかりしているからです。
別に困っている人に布施したり、それこそ災いが起きたところに寄付したり、ボランティアに行ったりすることも、たしかに徳にはなりますが、それでは足りないということです。
それで足りているのなら(そのようなことをする人は多いのですから)これだけ日本に災いが起きるわけがないからです。
それではぜんぜん徳が足りないから、これだけ日本に悪いことが起きているのです。
では、その足りない分をどこで補うのか?ということになります。
だからそれは、本当の神の教えを説いている人に布施する以外にないということです。それだけ本当の神の教えを説いている人に布施するということは、大きな徳になるからです。
この辺りの人たちなど、特に徳が(別にシャレではありません)足りません。だから、これだけひどいことが起きているのです。(この辺りの人たちは、本当の神の教えを説いている人に嫌がらせをしているのです。それでは逆にドンドン徳がなくなります。だからドンドン悪いことが起きてくるのです。自分の徳を自分でドンドン減らしているからです)
その悪いことを止めたいのであれば、それは徳をえることしかないのです。
では、本当の神の教えを説いている人に堂々とよいことをするしかないのではないですか。それ以外で、その災いを止める方法は(多くの徳をえる方法は)ないからです。
悪いことを止めたいのであれば、徳をえるしかありません。
徳をえるよい行いはコソコソするのではなく堂々とやってください。そうすれば、災いなど起きなくなるからです。
(ここに書いてあることは真剣に読んだ方がいいですよ。本当にそうすれば災いは止まるからです。このまま態度を変えようとしなければ〔また中途半端な態度しか取らなければ〕こちらの人たちの多くがいなくなるかもしれません。〔本当にそんな感じですし、トラックの運転手などそうですし〕もう少し徳をえる行いをされたらどうでしょう。〔金儲けばかりしているのではなくです〕それが一番、災いが起きない方法であるからです)



人目の訪問者です。

新たな反省の機会を頂きました。それは家内に対するものでありました。夫婦はお互いが理解しあって調和するもの。私の場合、私が家内より先に心の勉強へ歩みだしているので家内に対し、いつも妻であることの感謝と妻として今出来ることを努めていることに感謝をするのぜです。そうして妻が心の勉強に気付きを頂いた時が初めて夫婦が調和するものと思っていました。しかし、それは間違いであり私の方が妻に対し心を向けなければならなかったのでした。私の間違いは妻が調和するもの、という上から目線であったことで、何一つ妻の心に感謝する素直さがなかったことです。私がしっかりと妻に感謝することで。妻の心は安らぎ本来もつ愛が出てくるのであろうと思います。強いては、何故婿に入ったのか?それは妻を通して、私が感謝し尽くせる環境だからであり
感謝する勉強には最適てあったからだとも思えるのです。世の殿方は淋しさ故に不貞をするようてすが、ではそういう殿方は妻に感謝出来ているのでしょうか。妻は旦那をだけを見ているのではなく、家を守り、家庭を守る。そのためには、真剣に家のことを考え家庭のことも考えるのです。殿方だけを見ていては到底家や家庭は守れないでしょう。淋しいと思う前に妻に感謝し尽くせることで初めて夫婦の調和へと進むのではないでしょうか。今回はそんな核心に迫る思いですが、妻に対する反省はまだまだ、続くことでしよう。
園頭先生は奥さんに頭を下げられることで、奥さんへの感謝の心を現されたそうです。
そういう行いをされたら、奥さんが急に泣き出され、園頭先生にどこまでもついていくと、そうして、園頭先生が乞食(こじき)をされるなら、自分も一緒に乞食をしますとまでいわれたそうです。
最近はすぐに別れてしまう夫婦が多いのですが、夫婦ならそうありたいものですね。