4月 18 2019
利口(りこう)とバカの差
フランスのパリの中心部にあるノートルダム寺院の大聖堂が大規模な火災で燃えたそうですね。
このノートルダム寺院は、世界文化遺産にまで登録されている立派な建物で残念なことではありますが、しかし、その聖堂で奇跡が起きるという話はききません。
少々きつい言い方にはなりますが、ノートルダム寺院はすでに形骸化され、正しい教えを説く場ではなくなっているのでしょう。(祈りの場とはいえ、正しい祈りをしているわけではありませんし)
だから、こんな大規模火災が起きたのです。正しい教えを説く場でなければ、そんな寺院など不要であるからです。(正しい教えを説かないのなら、その寺院がどれだけ立派な建物であってもじゃまなだけです。本来の目的を果たしていないのですから。寺院は博物館ではありません)
それに最近のカトリック聖職者の腐敗はひどいものです。(例の未成年者への性的虐待など)では、フランスの中心の(というよりヨーロッパの中心の)カトリック教会が燃えても、不思議でも何でもないわけです。
そんな不浄な場所を神が守られるわけがないからです。
それどころか天罰を食らってもおかしくはありません。それだけ現在のキリスト教は堕落しているのです。
ソロソロ、フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の人々も、正しい神の教えに目覚めなければいけない、そういう時が来ているのです。
だから、フランスの首都であるパリのど真ん中のカトリックを代表する有名な寺院で、こんな大規模火災が起きたのです。
中身のない信仰など、どれだけ立派な建物をつくろうが意味がないということを神がヨーロッパ全土に知らしめるためにです。
益々、この正法神理の重要さが増しているのですが(早くヨーロッパの人々にもこの教えを伝えなければいけませんから)しかし、その正法神理が出現している日本で、日本の人々がまるでこの教えを拡げる気がないというのですから、これほどの悲劇もありません。
これでは現れるわけです。日本に様々な神の業がです。
もう世界がこの教えを必要としているのに、日本の人々が全然やる気がないからです。
昨日でもこの辺りの人たち(今日も朝からそうですけど)アホみたいに怒って嫌がらせをしているだけです。(そういう人が多いのです)
いつまで同じ態度を繰り返しているのでしょう。だから悪いことが起きるのです。
自分たちは知らないことを散々教えてもらい(それも神に対しての正しいことを)そうして心も救われているはずなのに、それに対して一つの感謝もしない、嫌がらせしかしないではよいことが起きてくるわけがありません。
いい加減、そのような行いを反省されてはどうでしょう。そうすればよいことも起きてくるからです。
ここで、このブログを読んでいる人たちにちょっとききたいのですが、今日のブログの題でもある利口とバカの差ってどこにあるのかお分かりですか?
多分、分かっていない人がほとんどでしょう。分かっている人が多いのなら、この辺りの人たちのように、同じ態度をいつまでも繰り返している人はもっと少ないはずであるからです。
利口とバカの差は学歴の差などと思っている人も多いのかも知れませんが、そうではありません。
学歴があるないは、その人がこの世に出て来た目的の違いなだけで、それ以上でも、それ以下でもありません。(この世に勉強することを主の目的で生まれてきた人は学歴が高くなりますが、そうでない目的で生まれてきた人は〔前世であまりに勉強しすぎて今生は学校の勉強以外のことをしようというです〕そんなに学歴が高くなるわけではありません。つまり学歴だけで人を判断するのは間違いであるということです。学歴と人柄は別であるからです)
利口かバカかの違い、即ち、かしこいか愚かかの違いは、判断がいいか悪いか、この差なのです。
つまり、かしこい人は正しい判断しかしないが、愚かな人は正しい判断も間違った判断も両方してしまい、愚かであればあるほど間違った判断が多くなるということです。
だから、この辺りの人たちは同じことを繰り返しているのです。正しい判断が出来ない人たちばかりであるからです。つまり愚かな人が多いということです。
だってそうではないですか。
かしこいのであれば、同じような態度は取らないはずであるからです。同じ態度を取れば同じように悪いことが起きてくるのです。
それはもう分かっているのです。(もう何年も前から同じことが起きているのですから)
では、別の態度を取ろうと、利口であるなら(かしこいなら)そう思うはずですが(そう判断するはずですが)そのような判断がいつまでたっても出来ない。
だから悪いことがいつまでたっても止まらないのです。正しい判断がいつまでたっても出来ないからです。
誰もそんなことは認めたくはないのでしょうが、しかし、事実は事実なのです。
バカじゃないなら、これだけ悪いことが起きてきたら、態度を変えるはずであるからです。
このような態度は間違っていると、そう判断してです。
しかし、バカな人はそういう判断がまるで出来ない、自分が死ぬまで(あるいは死んでも)同じ態度を取り続けるのです。
そのような態度が間違っていると判断できないからです。(責任転嫁ばかりしてです。その責任転嫁が間違っていると判断できないのです)
つまり、この差なのです。利口とバカの差はです。
利口でかしこい人なら、悪いことばかり起きて来たのなら、これはどこかに間違いがあると(それは自分たちの行いが間違っていると)すぐに判断できるのですが、バカで愚かな人たちは、どこに間違いがあるのか全然分からないのです。
そもそも自分たちが間違っているという判断が出来ないのではないでしょうか。そこまで考えが至らないからです。
だから自分たちが間違っているなどという判断などまったく出来ない。そういう発想がまるで出て来ないからです。
我が強いとか、意地を張っているとか、そういういい方も出来ますが、そういうのもあわせても愚かであるから、正しい判断が出来ないのです。
正しい判断が出来るのであれば、これだけ悪いことばかり起きているのなら、自分の行いをかえりみて、多少なりとも態度を変えていくはずであるからです。
ところが愚かであればあるほど、そこまで考えが至らないから、自分たちがしてきたこれまでの行いなどまったく考えよともせず、ただ、いま起きていることだけを考え、このように病気になったのはお前のせいと、それ以外の発想が出て来ないのです。
つまり、愚かであればあるほど、浅く狭い考えしか浮かんでこないということです。
残念ではありますが、この辺りの人たちは、そのような心が浅く狭い愚かな人たちが多いということです。
そうでなければ、これだけ同じ間違いを繰り返し、同じ災いばかりを受けるはずがないからです。
かしこいのであれば、いい加減、自分の悪いところに気づいてそこを直すからです。
しかし、そういう愚かな人たちでもです。成長していかないといけないのです。そうしない限り、よいことは起きて来ないし(心が)成長しなければこの世に生まれて来た意味もないからです。
いい加減、バカは(愚かは)卒業して利口に(かしこく)なりませんか?
そのようにかしこくなっていった人から救われて行くのです。
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追伸…相変わらずの皇室叩きを週刊誌などしているようですね。(今週の週刊誌の新聞広告を見ましたが見るに堪えません)
先ほど祈りのことをちょっと書きましたが(ノートルダム寺院での祈りは正しくないと)こういう連中は何をいっても、このようなことはやめないでしょう。(どこかの国の工作員でも混じっているんではないですか。日本の中心である皇室を潰そうと、そうして日本を混乱させようと)
だから、祈ればいいのです。正しい祈りはきかれるからです。
このブログを見ている人たちでやる気のある人は祈ってください。このようなくだらない(皇室叩きの)広告を見た時だけでも結構であるからです。
その祈り方は「神よ、皇統を潰そうとしている者たちに様々な現象を現し、この者たちを正しくお導きください。この者たちに光をお与えください。調和と安らぎをお与えください」とです。
これだけでいいのです。簡単でしょう。(一分もかかりません。〔笑〕)
ただし、このような祈りを調和と安らぎの心でするのです。怒りや憎しみの心でしてはいけません。そんな心でするなら、その祈りは正しくなくなるからです。(これが正しい祈りの難しいところなのです。祈り方だけではなく心の在り方を間違っただけでもいけないからです)
このような祈りを多くの人がするなら、その祈りはきかれ、このような週刊誌報道は段々なくなって行くからです。(そういうことを書いている連中に様々な現象が現れてです)
私がそういう祈りをしているのですから間違いありません。(愛と調和の心で、こういう祈りをするだけで嫌がらせをしてくる人たちにボンボン現象が現れてきます)
正しい祈りは自分たちの徳にもなります。(そのような間違ったことをしている人たちを正しく導いてほしいと神に祈るのですから)
キリストの「汝の敵を愛し、責め憎む者のために祈れ」という言葉を実践しましょう。これほど愛ある行為もないからです。
(そこを勘違いしている人が多いから困るのです。悪いことが起きてきたら悪い祈りをしているなどとです。とんでもありません。悪いことをしている人たちに悪いことが起きてくるならそれは気づきの現象なのであり、これだけよい行いもないのです。だから、このような祈りはどのような時にも使えるのです。〔自分の身に何か悪いことが降りかかった時にでもです。そういう悪いことをしてくる人を愛し、正しく祈るのです。そうしたら黙っていても救われて行くからです〕このような祈りは知っていて損はありません。一度実践してみてください。そうすれば自分が困った時でもきっと役に立つからです)



人目の訪問者です。

池袋で起きた自動車事故による被害者の親子が亡くなったそうですね。今は防犯カメラもあり衝撃映像としてマスコミか取り上げる時代となり、目の当たりにすることにもなるのです。自転車でルールを守り横断歩道を渡るその親子は、どんなことを考えていたのだろう?何か子供は母親と話をしていたのだろうか?そう思うと非常に辛い思いになります。もう半歩でも自転車を漕ぐ時間がズレていたらと、自身がトラックにひかれる難を免れたことを思い出します。しかし現実は生と死によって受け入れる厳しい世界であると認識せざるを得ません。その事実にどれだけの人が気付いているのだろうと思います。ただ可哀想であるとか、運転手が悪いとかではなく何を学ぶか、すべては心の勉強そこに尽きると思います。あの亡くなられた親子のご冥福をお祈りし、正しい心に気付かれ神のご加護がありますことを願って止みません。
そういう人たちもこの教えを実践していれば守られたのです。早くこの教えを拡げねばいけませんね。