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5月 30 2019

神の光

10:47 AM ブログ

また悲惨な事件が起きましたね。あの十九人の死傷者を出した殺傷事件です。

その事件での死傷者は、ほとんどが小学生だというではないですか。あの事件の犯人はなんということをするのでしょう。

血も涙もないとはまさにこのことですが、このような事件を起こした犯人は当然悪魔に憑かれています。

だから、こんな血も涙もない事件が起こせるのです。やっているのは人間ではなく悪魔であるからです。

ちょうど前回、私に頭を下げた小学生のことを書いたんですが、例えば、この小学生がこのような事件に巻き込まれたとします。

するとこの小学生はどうなっていたでしょうか?

想像でしかありませんが、私に頭を下げられる心を持っている小学生なら、仮にこのような事件に巻き込まれていたとしても助かったでしょう。

それは断言できます。

なぜなら、前回書いた小学生は私を知っているのですから、ということは(本当の)神の教えを知っているということになります。そうして、その神の教えに対して感謝しているということにもなります。(だから私に頭を下げられるのだし)

そうなると、この小学生は神の光に覆われているということになりますので(当然そうなります。神の教えを知って感謝しているのなら、それは神に感謝していることになるからです)そうであるなら、悪魔はこの小学生に近寄ることは出来ません。

なぜなら悪魔が一番嫌がるのが神の光であるからです。

では、この小学生が悪魔から危害を加えられることはないでしょう。神の光に覆われている者の近くに悪魔は寄ることが出来ないからです。

つまり、本当の神の教えを知って神に感謝している人には災いは寄って行けないということです。

神の光が、その災いを寄せつけないからです。

だから私は「神に感謝してこの教えを勉強されてはどうですか」といっているのです。そうして「この教えを勉強するなら、災いは止まりますよ」といっているのです。

詳しく説明するなら、このようなことであるからです。

昨日のような殺傷事件は防ぎようがないのです。

殺傷された小学生に、保護者がついていようが誰がついていようが、一瞬の出来事であったのですから(わずか十数秒で犯人は十九人もの人を殺傷させたそうですから)人の力でどうにかなる話ではないからです。

しかし、個々に現れる神の光(それはすなわち神の力)が守ってくれるのなら、これほど有難い話はなく、そういうことが可能になるのが、この教えであるのです。

昨日も怒っている人がそこらじゅうにいましたが、いつまでも意地を張らずこの教えを勉強すればいいのです。

そうすれば(何度もいいますが)災いは起きなく(寄ってこなく)なるからです。

奇跡も神の光に覆われているから起きるのです。神の光が現れてもいない人たちにどうして奇跡が現れるでしょう。

その神の光が現れるか現れないかで、起きてくることも大きく変わってくるということです。

こちらで起きていることは十数人が死傷した程度の話ではないはずです。(本当に最近は道路がすいています。昨日など庄内川の横の道路も一号線も名四(国道二十三号線)もガラガラでした)

そのような事件は確かに悲惨な出来事ではありますが、こちらの人たちはそういう事件に悲しんでいる暇はないのではないでしょうか。

なぜなら、こちらはもう大人子供にかかわらず、もっと悲惨なことが、もっと多くの人たちに起きているはずであるからです。

だからこれだけ道路がすいてきているのであるし、多くの人たちも怒っているのです。それだけ多くの災いがこの辺りには現れているからです。

これだけの事実が目の前に現れているのです。もう現実から目を背けて責任転嫁していても救われることはないでしょう。

自分が悪いから自分に災いが現れているからです。

人のせいで災いが現れるのではありません。自分の心と行いが悪かったから、その人には災いが現れたのです。

その人の心と行いが正しければ、その人は神の光に覆われ奇跡が現れているはずであるからです。

「お前のせいでこうなった」は責任転嫁以外のなにものでもないのです。すべて自分の責任であるからです。

いま現在、これだけ現れている災いから、この辺りの(東海三県の)人たちが救われる道は、もうこの教えを実践する以外にないのです。(もう他の教えでは救われないでしょう。そういう他の教えをしている人たちにも次々に災いが現れているからです。これもまた現実なのです)

何度もいいますが、これだけ災いが現れているのに、その中で奇跡が次々に現れているのは私だけなのです。

ということは、先ほども説明しましたが、私ほど神の光に覆われている者はいないのであり、そうであるなら、この辺りの人たちがみな私のように神の光に覆われるなら、その人に災いが現れてくることはないということになります。

その神の光がその人を守ってくれるからです。

嘘をつく者が神の光に覆われ奇跡が起きるということはありません。単にこの辺りの人たちが、その事実を認めようとしないだけなのです。

事実を認めないで、心も行いも変えないまま行くのであれば、この辺りで起きている多くの災いは、いずれそのような人たちにも現れることになるでしょう。

この辺り、これほどの災いが現れているのです。心も行いも変えないまま、奇跡が現れてもいない人たちに(ということは、神の光に覆われていない人たちに)この辺りで起きている多くの災いが避けて通るとはとても思えないからです。

この辺りで起きている多くの災いから逃れる術は、この教え(正法神理)を実践する以外にありません。

これはまぎれもない事実であるのです。

そのような事実を、いつまでも認めようとしないことこそ(そのような心でいつまでもいることこそ)最大の災いなのです。

その最大の災いを反省しませんか。

それ以外で救われる道はもうないからです。

(早く気づいてください。そのような事実にです。特にこの辺りの人たちは今のままの心でいては非常に危ないのです。それほど多くの災いがこの辺りには現れつつあるからです)

追伸…最近は、少しずつではありますが皇室に対する報道が変わってきましたね。

まだ皇室に対しおかしな記事を書いている週刊誌もありますが、別の週刊誌がそのような記事を批判したり、あるいは女性宮家を否定したりする記事も段々出てきました。(少し前までは皆無だったんではないですか。こういう記事はです)

これも、万世一系という皇統を潰そうとしている人たちを祈っているお蔭でしょう。そのような祈りの効果が段々現れてきているものと思われます。

だから、最近は、こういう(女性宮家を否定したりする)記事も増えてきたのです。

そのように天が導てくださるからです。これも神の力の現れなのです。

正しい祈りはすればするだけ神の光が現れてきます。ガンガン祈りましょう。それも人助けであるからです。

(間違った記事を書いている人を正す祈りをするのですから、人助けでしょう。私も祈っています。皇統を潰そうとしている週刊誌をです。しかし、ちゃんと祈った後には神に対し「神よ、ありがとうございます。神よ、ありがとうございます」というお礼の祈りも忘れないでくださいね。頼むだけ頼んでおいて、お礼もいわないではこれほど礼儀知らずな祈りもないからです…そういう礼儀知らずの人が多いようだからです。このブログを見ている人たちはです。〔苦笑〕)

2コメント

2 コメント to “神の光”

  1. うなっシー2019/05/31 at 8:57 PM

    本当に最近は人絡みの事件が立て続けです。天災か人災か、そう問われたら人災なのです。ところで皆さんはこの一連の事件を見てどう思っているのでしょう。例えば、他山の石とでも思う人はいるのてしようか?この世界を創っているのは他でもない私達一人一人なのですからね。誰一人例外はいないのです。産声を上げたばかりの赤ん坊でさえこの世にひと度でれば、この世を形作る社会の構成員の一人となるのです。これは紛れもない事実なのですから変えようもないのです。なのでこの事件だけではありません、全ての社会現象は我のこととして真剣に捉え、まずは身の周りを正していくことから始めることです。よく言う、人の振りみて我が振り正せ直せ、とか前述した他山の石などです。そう思い立ったが吉日、縁ある者として
    今晩から一度自身の行いを振り返って見ましょう。

  2. gtskokor2019/05/31 at 9:39 PM

    そういうことですね。

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