11月 17 2011
三人よれば舎利弗の智慧②
舎利弗を筆頭に十大弟子や阿羅漢の人々は後世“辟支仏”(びゃくしぶつ)といわれるようになります。
辟支仏とは、仏になりたいと思っても仏にはなれない人たちで、十大弟子や五百羅漢の人たちは、この辟支仏であり、ただ自分一人の悟りを楽しんで人に伝えることをしない声聞(しょうもん)である、と言われ軽蔑されるようになり、代わって登場するのが、十大弟子でも五百羅漢でもなかった文殊と普賢です。
しかし、辟支仏と言われるような仏(?)など存在しませんし(すべての人は悟れるのであって、それが早いか遅いかの違いだけです。つまりすべての人が仏になれるのです)何で五百羅漢でもなかった文殊や普賢が(まだ阿羅漢の境地にも達していなかったのですから、ただ法を知っていると言うだけで、普通の人とさほどかわりません)五百羅漢や、まして十大弟子より上なのでしょうか?考えられないような高い評価をこの二人は後世受けることになったのです。
このような評価を、全然たいしたことがなかった二人が受けることになったのは、釈尊の弟子たちは確かによく禅定をしていました。しかし、それは禅定(反省・瞑想)がもっとも大事なことである、と釈尊に言われていて、五百羅漢の人たちはその言葉を守り、よくあちこちで禅定していたのを文殊や普賢があざけり「あんなに禅定ばかりして人に法を伝えようとしないのは、自分たちさえ悟ればいいと思っているからだ」(このような文殊などが適当に語った言葉が後世に伝えられ、後に仏教が小乗と大乗に分かれる理由の一つになるのですが、それはまた別の機会に書きます)などと、十大弟子や五百羅漢をくさしておいて「私はこのように釈尊から聞いた。この教えが本当なのです」と口からでまかせを、あちこちで言いまわった影響が大きかったのではないかと思われます。(それが後に文殊が主役である「維摩経」や普賢のお経までつくられてしまった理由です)
つまり、よりたくさんいい加減なことを言いまわった文殊や普賢が、後に十大弟子や五百羅漢より高い評価を受けるようになった、ということが事実のようです。
現代で言うなら、エル・カンターレとか、アホターレとか言っている(幸福の科学だったか不幸の科学だったか忘れましたが、高橋先生の名を利用して教祖になった)バカ教祖が、後世に高橋先生や園頭先生より高い評価を受けるということと同じことなのです。
それくらい文殊や普賢を高く評価することは間違っているのです。(物凄い間違いです)
つまり、今のように「三人よれば文殊の知恵」などと言っていれば、それは「三人よってもバカはバカ」程度の意味にしかならないのであって(こういう意味で使うなら全然OKです〔笑〕)普通の人でも三人が協力すればよい知恵が浮かぶ、という本来の意味にしたいのであれば「三人よれば舎利弗の智慧」と言うのが正しいのです。
舎利弗は、釈尊に後継者と認められていた、ただ一人の人物でありました。
エドワード・コンゼが書かれた「コンゼ仏教ーその教理と展開」(仏教の教義と歴史を知るには絶対に欠かせない世界的に有名な名著です)には創立者と継承者のことがこのように書かれています。
「継承者は創立者ほどに才能はないが、教義を分かりやすく編集して、普通の人間の要求と理解力により一層応ずるものである」
そしてシャリー・プトラーのことも次のように書いています。
「シャリー・プトラーは仏陀より六ヶ月前(実際は一年前です)にこの世を去ったから、仏陀の死後の組織化を引き継ぐことができなかった。しかしシャリー・プトラーは、彼独自の形態に基づいて教義を体系化し、これによって大きな影響を及ぼしたのである。仏陀の教理に対するシャリー・プトラーの解釈と理解とが、約十五世代から二十世代にわたって仏教社会を支配した」
一人の人間が生まれて、人に法を説くようになるには、早くてもせいぜい三十代から四十代です。その人が死ぬまで説法を続けるとして、一世代といえば三十年くらいでしょうか。仮に三十年として、十五世代で四百五十年、二十世代では六百年ということになります。
シャリー・プトラーがまとめた釈尊の教義は、四百五十年~六百年伝えられ続け、シャリー・プトラーは般若心経、法華経、阿弥陀経などの、ほとんどのお経に「舎利弗」「舎利子」(しゃりほつ・しゃりし)の名で、書き記されるようになります。
舎利弗の存在は後に仏教を知る人々に、多大な功績を残したのです。
この舎利弗と文殊では天と地ほどの違いがあります。
何人か集まってよい知恵が出たのであれば、その時は
『三人よれば舎利弗の智慧』
このように言うのが正しいことなのです。



人目の訪問者です。
