8月 12 2020
罰当たりな行いより徳ある行い
しかし、暑いですね。
昨日は四十度を超えたところまであったとか。こんなに暑くなるっていってましたっけ?天気予報はです。
天気予報の予報より明らかに高い気温になっています。まあ、いつものことといえばいつものことなんですが、真夏にこれではねえ。
最近は予報が悪い方にしか外れません。これもまた凄い結果ですよね。多くの人の行いの悪さがよく分かる出来事であるからです。
その行いの悪さといえばです。どこかの会社だけではなく、どこの会社も、あるいはどこの工事現場なども、私に嫌がらせをして来たところは必ず出ているようですね。
天罰がです。
個人までは分かりませんが、何人か人が固まっているところは必ず誰かに出るようです。私に嫌がらせなどしたらとたんに天罰がです。
これなど行いの悪いのがもろに出ている典型なんでしょうが、直したらどうですか。そのような行いの悪さをです。
少なくともそこは直さないと直接自分自身に天罰が現れて来ます。
他のことはともかくです。こればかりは折れた方がいいのではないしょうか。自分たちのそのような行いの悪さを直さない限り、どれだけ自分が天罰を食らうか知れないからです。
と、こういうことをどれだけ書いてもです。この辺りの人たちはビビりもしません。どれだけ天罰が現れても平気で嫌がらせをして来ます。
頭がおかしいのではないでしょうか。現代の人たちはです。本当に天罰がくだっているというのに平気で嫌がらせをし続けているからです。普通であるならです。(昔の人ならです)何度もこんなことが起きて来たら、誰だってそういう態度は直すはずだからです。
しかし、現代の人たちは(この辺りの人たちは)そう考える人はほとんどいないようです。天罰がくだればくだるだけ、よけい意地になって感情的に(怒りまくって)嫌がらせをしてくる人がたくさんいるからです。
バカじゃないでしょうか。現代の人たちはまともに(冷静に)物事を考えるということをしないのでしょうか?
それともどれだけ天罰がくだろうと、それを天罰とは認めず「それはお前が人を病気にしているだけだから、そんなことに負けるか」みたいな考えで、それでしてくるのでしょうか?
私に対する嫌がらせをです。
どういう考えでやって来ているのか、凡人の私では想像もつきませんが(苦笑)しかし、そういう人たちに(神理を見ているのに感謝もせず嫌がらせをしている人たちに)災いが現れていることだけは確かなのです。
そうであるなら、どちらにしても愚かですよね。そういう態度はです。
だって、それが天罰であろうとなかろうと、そういう態度を取り続けているのなら、どこかで自分自身に災いが起きてくることは確実であるからです。
もう私は何度も説明しています。もし、私が人を意識的に病気になどしているのなら自分も病気になるとです。(因果応報です)
しかし、私は病気になるどころか、次々に奇跡が現れて来ています。
そのような起きてくる現象が、私が人を病気などしていないという何よりの証拠なのです。口でいっているだけではなく、そういう現象が起きているのですから、これだけ正しい話もないはずです。
どれだけ認めたくないことであろうとです。私に嫌がらせをして、それで病気になっている人たちは天罰を食らっているのです。
そこの判断を間違えたまま死んでいくのなら、その人は確実に地獄行きなのです。早く正しい判断をしてほしいものです。間違っているのはあなたたち(災いが現れている人たち)の方であるからです。
神理を説いている者に嫌がらせなどすれば罰は当たるのです。それは別に今だけのことではなく、過去から起きていたことであるのだし、過去にも神理を説いている人に嫌がらせなどすれば天罰がくだったのです。
それだけ罰当たりな行いもないからです。行いの悪い最たるものであるからです。だからすぐに天罰がくだるのです。
だからいっているのです。そんな罰当たりな行いをするのではなくです。神理をきいたのなら感謝して布施しなさいとです。
そうすることこそ正しいのであり、それだけ徳ある行いもないからです。
神理を知るということは、それだけ徳を得るということであるのであり(もちろん実践出来ればという話ですが)それに対して、真反対の嫌がらせを返しているようでは当然罰は当たるのです。
それだけ恩知らずな徳のない行いもないからです。
だから私に対し少なくとも嫌がらせはやめた方がいいでしょう。私に嫌がらせをしている人でよいことが起きた人など一人もいないからです。しかし、天罰がくだった人はごまんといるからです。
二、三日前でしたか、堀川にいって川に向かって声をかけていると、細かい魚たちがまたずいぶん上がって来てピチャピチャやっていました。
その時はたまに大きな魚も跳ねて、バシャバシャもしていたのですが、そうやって川をのぞいていると、私の上空ではすずめやらムクドリやらがあちこちから飛んできて、飛び回っています。
たまに変わった鳥も(というか、単に私が鳥の名前を知らないだけなんでしょうが。〔笑〕)飛んできて、私の近くでよく鳴いています。
少し前に、あるところを歩いていると前を何か小さな黄土(おうど)色をした生き物が横切りました。明らかに猫とは違います。
何だろうと思って、横切っていった辺りを見ながら歩いていると、木陰からその生き物がこちらをジッと見ていました。
多分、イタチかテンか何かだと思うんですが、そういう生き物もたまに見かけます。
町中を歩いていてもですよ。ちょこちょこ出てくるのです。私が歩いているとそのような生き物がです。
タヌキを見たこともありますしね。名古屋の町中でです。(笑)だから案外こういう生き物は町中でもあちこちに生息しているのでしょう。(とはいえ、中川区とか、わりと畑や田んぼが多い場所でではありますが)
私が何をいいたいのかといえばです。徳ある行いをするなら、こういういろいろな生き物も挨拶してくれるのだし、癒される行いも取ってくれるということです。
そういえば昨日の中日新聞に東山動物園のアフリカゾウが死んだと書いてありました。
このゾウは、私が観にいくとよく私の前まで来てグルグル回っていたり、水浴びや砂浴びなどして、楽しい姿を見せてくれていました。このゾウは特別私になれていたのではないでしょうか。
それがこの前、東山にいってこのゾウを観にいくと、何か知りませんがあまり元気がなさそうでした。
私が「オイ元気か」と声をかけながら近づいていくと、いつもなら歩き回ったり、鼻を上下に動かしたりして元気がいいのですが、その時は動きもせずジッと私の方を見ていました。
「あれ、暑いんで元気がないのかな」とその時はそう思っていたのですが、いま考えるとです。このゾウはその時もう自分の死期を悟っていたのではないでしょうか。
だから名残惜(なごりお)しそうに私の方をジッと見ていた、そう思えてなりません。
動物は自分の死期を悟るといいます。
例えば猫など、自分の死期が近くなると一匹で山の中に入っていき、そこで死ぬといわれます。(嘘か本当か知りませんが、そういう話をきいたことがあります)
だから野良猫など急に姿が見えなくなると「あの猫死んだな」といわれるようですが、だから、この前、私が東山動物園にいった時、あのアフリカゾウは寂しそうにこちらを見ていたのでしょう。
もう自分の死期が近いことを知っていたからです。
悲しい話ですが、しかし、この肉体の世界は時間が来れば、やがてその肉体は朽ち果て意識の世界に帰らなければいけません。
これもまた神がつくられた法則なのであり、誰も(そうしてどんな生き物も)この法則からは逃れることは出来ないのです。この肉体の生を得るなら死もまた受け入れなければいけないのです。
しかし、私はずいぶんこのような動物たちに救われています。私もやがてこの肉体が朽ち果てあの世に帰る時が来ます。
そのようなあの世、意識界に帰った時には、この動物たちがいる世界を訪ねようと思っています。
そうして「肉体の世界でずいぶん人間たちにはいじめられたが、お前たちには癒された。ありがとう」とお礼をいってこようと思っています。
また、その時に、東山のアフリカゾウとも会えることでしょう。あのアフリカゾウとはしばらくお別れしますが、また会えることを楽しみにその時を待ちます。
このような動物たちはずいぶん神理に対し協力的ですが、それに対し人間たちの非協力的な態度は言語に尽くしがたいほどです。(決して大げさな言い方でなくです)
もう罰当たりな態度はやめませんか。そのまま死んでいくのなら確実に(このブログを見ている多くの人たちは)地獄行きだからです。
しかし、動物たち同様、神理に協力的な徳ある行いをするならみな天上界に昇れるのです。(だから動物たちはみな天上界に往くということです)
天上界に往きたいから徳ある態度を取るというのでなく、神の子の人間は徳ある態度を取ることが正しいことであり、そのような態度を取るべきなのです。
動物でさえやっていることを人間が出来ないようでは動物にも笑われます。
徳ある行いを取ってはどうでしょう。それこそ神の子の人間が取るべき正しい態度であるからです。



人目の訪問者です。

連日の酷暑の中ではありますが如何お過ごしでしょうか。私は今日も朝から神と向かい合う中で、神の愛をお腹一杯頂き一日のスタートをしております。しかし、今回は一味違ったものとなっているのです。先日お話しさせて頂きましたが、お腹の具合が悪くて家内の勧めもあり近くの医者に診てもらい薬を処方している中でのことなのです。それのどこが一味違ってのことかと申しますと、感謝感謝と口では言いながら頭の片隅にもそんな思を持たず過ごしてきた頃を振り返ると、不調であるお腹へと意識的に神の愛を溜め込んで感謝の思いで一日を過ごすという体験をしているということです。しかし、そらは私に不足していたところてもあり、神が体の不調を通してそうさせて下さったとも言えるのです。さればより一層感謝の思いで取り組めるのです。また、これは心の勉強において必要な過程であったのであり、だから自分はダメなんだという自責の念は持たずに、その辺りを意識して神と向かい合うことができる、これこそが一味違ったものとなっているのです。
このような酷暑の中でも感謝を深めていってください。