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1月 14 2012

園頭先生に悪口を言った人に起きた恐ろしい出来事⑤

10:57 AM ブログ

このような恐ろしいことが続けて起きていても、この会の人はまったく考えを改めようとはしませんでした。その女講師の言うことを全面的に信じていたのです。

これだけ自分が主宰する会の会員が続けて癌で亡くなっているのです。普通なら自分にどこか間違いがあるのではないか、と反省の心が出てくるはずですが、この女講師そのようなそぶりもなく、癌で亡くなった人たちのことなど一切触れようともせず、園頭先生の悪口を言い続けていました。どう考えても普通じゃありません。(悪魔に憑かれてしまうと、人に同情などまったくしなくなり、神の教えを説く如来が憎くて仕方なくなります。その特徴がまともに現れています)

この人これで愛と慈悲を説いているのであろうか?私にはとても理解できませんでした。しかし、周りを見れば、この女講師の言うことを盲目的に信じている人ばかりです。なんで、こんなおかしな現象が続けて起きているのに、この人の言うことを皆、疑いもせずそのまま信じているのだろう?私には不思議でなりませんでした。

こういう狂信、盲信している人たちに共通して言えることは、皆、視野が狭いということです。だから、こういう人たちは自分の周りに何が起きていようと、自分自身にそれが起きない限り分からないのです。自分が病気か何かになって初めて青くなるのであって(それではもう遅いのですが)人に何が起きようと、自分に起きないと分からない人たちなのです。

そうしてこのような人たちのもう一つの特徴は、悪いことは自分たちのせいであり、いいことは教祖様のせいなのです。つまり癌で死んでいく人は、それは自分の心が悪いからそうなるのであり、何かよいことが起きればそれは教祖様の教えが正しいから、そういうよいことが起きたのです。

こういう人たちは自分が師事している人を絶対に悪く思うことはありません。(だから盲信者、狂信者というのですが…)自分が師事している人は自分以上に大事な存在だからです。自分はそんな素晴らしい人に教えを受けているのだから、自分も素晴らしいと考えるからです。誰かを通してしか自分を素晴らしいと思えない、自分一人では立ち上がることができない情けない人たちなのです。

その反面、その教祖が一のような振りをしていますが、このような人たちはすべて自分が一であり、自分が救われることしか考えていません。だから師に対しても、平気で掌返しのようなことができるのです。(信仰などしていない普通の人でもこれだけ極端な掌返しはそうはできません)

自分の師は誰でもいいのです。要は自分が救われさえすればそれでいいのです。(だから人のためと言いつつ、実は自分のために人に尽くしているに過ぎないのです。こういう人は人のために自分を犠牲にすることはありません。これは本当の信仰ではありません。ただの偽善です)この人についていけば自分が救われる、それしか考えていないのですから何一つ深く考えようとしません。周りにそういう人が多かったから、自分もついていった、ただ、それだけです。自分自身でそれは正しいことなのか、正しいことでないのか、判断しないのです。(自分が救われたいばかりでそこまで頭が回らないのです)

赤信号みんなでわたれば怖くない、まさに、それを地で行く人たちなのです。

しかし、間違ったことを言う人についていった人たちが(それも最悪の間違いです)どれだけ恐ろしい目に遭うのか、私はそれを目の前で見ていました。

このような(女講師の側近が皆、職を失い、会員が癌で次々に死んでいく)恐ろしい光景を目の当たりにし出した時、また、私は会の幹部と大ゲンカとなり(今度は自分のブロックのブロック長や支部長を巻き込んでのものです)もう、この会を辞めざるをえなくなりました。多分、これ以上この会にいる必要はない(もう自分がこの会で、体験しなければならないことは体験し、見なければならないものは見たからでしょう)との、天の配剤のようにも思えましたので、私はこの会を辞めました。(約十年前のことです)

この会で起きたこと(このような恐ろしいことばかりではなく、私は不思議な体験をこの会にいる時に何度もしました)は、いつか(どのような形になるかは分かりませんでしたが)世に伝えようと思っていましたので、細かく記録してあります。

この会の中で私に何が起きていたのか、また追い追い書いていきたいと思っていますが、ここに書いた恐ろしい出来事は作り話ではありません。すべて、実際に私の目の前で起きたことです。事実を事実のままに書いているのです。

神の使いであった方の悪口を言い、散々汚した人々がどのような目に遭うのか。(まだ、この会はやっていますので現在進行形ではありますが)本物の神の使いに同じことをすれば同じことが起きるということです。

私は自分が腹が立つから、立川のオバちゃんに早く謝れといっているのではないのです。こういうことが起きてもいけないから、早く謝れといっているのです。私のことをボロカス書いてアメーバに投稿した人もそうです。(最近は毎日のようにこのブログ読まれているようですが)この人にこのようなことが起きてもいけないから、訂正記事を書いてください、と言っているのです。

私が本当の詐欺師でドンキホーテーならいいです。(それが本当なら、本当のことをその人たちは言い、書いているだけですから、その人たちに何も起きません)しかし、もし、私が本当の神の使いなら、近い将来そんなこと(誹謗、中傷)を言ったり書いたりした人には、必ず何か起きるのです。反省し詫びないとその罪は許されないからです。もし私が本物なら取り返しがつかないことになるかもしれないのです。(まだ、笑われますか?一笑に付されるなら付されるで結構ですが、くだらない意地やプライドだけで、この世だけでなく、あの世に帰ってからも長い苦しみを味わわなければならないかもしれませんが…最悪それでもかまいませんか?)

知らなかったは通用しないのです。(私は何度もエリシャを馬鹿にした子供たちがどうなったかを書いています)本物の神の使いは、生殺与奪の権限を神から与えられているのであり、普通の人が人を殺せば、それは人を殺した方が悪いということになりますが、神の使いを汚して(悪口を言ったり、バカにしたり、嫌がらせしたり、などなど)その神の使いを汚した人が死ねば、それは神の使いを汚した方が悪いということになり、その人は地獄で徹底的に反省させられるのです。(だからモーゼが起こされた大奇跡でも大勢の人が死にましたが、それは死ぬ方が悪いのです。自分の心がきれいであるなら死ぬことはなかったからです)

一昨日の中日新聞の“中日春秋”の欄にオウム真理教の元幹部の裁判のことが書かれてあり、その裁判で「師を誤るほど不幸なことはなく、被告もまた、不幸かつ不運であった」と裁判長が語られたと書いてありましたが、この世の裁判ではまだそんな情状酌量をしてくれますが、心の世界ではそんなことはまったくありません。自分の間違いはすべて自分の責任なのです。

神の使いを汚すことがよいことか、悪いことか、それをした人は、近い将来いやというほど、その間違いを反省させられることになるのです。

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