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4月 26 2010

園頭広周師③

10:34 AM ブログ

入院されていた園頭先生の父が退院されますが、完全に病気がよくなったわけではなく、それからよく家で寝込むようになります。病名は糖尿病です。

園頭先生の知り合いにキリスト教会に通っている人があり、その人は重症の肺結核をキリスト教で治したという人でありました。その人は信仰で病気が治るというのです。

園頭先生は、最初に出会った宗教家(浄土真宗)を信じることができなかったこともあり、信仰に対して不信感を持っていたのですが、父の病気がよくなるのならと、そのキリスト教に入信します。

そのキリスト教の牧師さんが言うには、

「人間は罪の子である。罪の子の人間が救われるためには、神のひとり子であるイエス・キリストに依り頼らなければ救われません。一切の欲望を捨て祈りなさい」

このような教えは一件正しそうに感じますが、このキリスト教の教えも前回書いた浄土真宗の教えとさほど変わらないのです。

キリスト教では「人間を罪の子」と言っています。これは浄土真宗の開祖である親鸞上人が「人間は罪悪深重の凡夫だ」といわれたことと同じであり、親鸞上人が「念仏」によって救われるといったことと、この教会で行っている「キリストのみ名をあがめ祈る」ことによって救われる、といっていることも意味は同じなのです。

浄土真宗は「性」を煩悩として否定していました。キリスト教でも「性は罪悪だ」といっています。これも同じでした。しかし、そう説教している坊さんも牧師さんも、せっせと罪を犯して子供をつくっています。こうした宗教家の二重人格さが、純粋を求める青年であった園頭先生にはたまらなくいやでした。

現代でも「性は煩悩である」「性は罪悪だ」と、得々と説教をしている坊さんや教祖がいます。その人たちが出家しているのならともかく、結婚して家庭を持ち子供までつくっておいて、なお「性は罪悪」といっているのは、ずいぶんおかしな話です。まともな人なら自分がしていることを、他人には、それはしてはいけない罪になるのだからと、堂々といえないはずです。これでは、神の教えを説いている宗教家なのか、自分の罪を人に押し付けえらそうなことを言っている、今、問題になっている政治家なのか見分けがつきません。似たようなことを言っているという点では同じなのでしょうが、少なくとも神の教えを説かなければならない宗教家が、このようなおかしなことを言うのは、多くの人を惑わすということで、その罪は政治家より重いのです。

この園頭先生の「性」への疑問は、高橋先生に出会われるまで続き、高橋先生の法を知ることによって、正しく「性」の問題を理解された園頭先生は、宗教家で初めて性の問題を真正面から見つめ、性の問題に対する正しい観念を与えた稀有の書「正法と人生の原点」を著することになったのです。

園頭先生は、牧師さんの話に疑問を持っていたのですが、それでも必死に祈っているうちに分からないことも分かってくるだろうと思い、夜になると教会に通いました。この教会の信者の人たちの祈りは凄まじかったのですが、その中でも、園頭先生の知り合いの方の祈りは特に凄まじく、その人は膝を立て両腕を上げ「ああ神よ、我を憐れみたまえ。我がなさんとにはあらず、わが内なる悪これを思うなり。我を救いたまえ」と、大きな声で涙を流しながら、ひれ伏して祈られるのです。

園頭先生もそれをまねて何度も祈りましたが、自分の迷いや疑問が晴れることはなく、救われた自覚など全く感じませんでした。それに涙を流し、大きな声で「神よ我を憐れみたまえ」と祈ることは、何か滑稽で芝居のような気がしてなりませんでした。

キリスト教には「洗礼」という一つの儀式がありました。これはイエス・キリストがヨルダン河で体を清められ、河から上がると天があけ、神の祝福を受けたことから始まったのですが、園頭先生は、この洗礼を受ければ今まで持っていた疑問も全て解決し、救われたという自覚を得られるかもしれないと思われ、洗礼を受けることにしました。

昭和十年十二月二十五日、園頭先生は鹿児島の海水浴場で洗礼を受けます。南国とはいえ鹿児島の十二月はやはり寒く、洗礼のガウンに着替えて海に入り、牧師さんと一緒に「アーメン」と祈りながら、牧師さんが「聖霊、鳩のごとく下れり、あなたの救いは約束されました」といわれました。

園頭先生は洗礼を受けることによって、一瞬にして悟りがひらかれ、救われたという実感と不動心を得るものと期待していたのですが、そのようなことは何も起こらず、ただ寒いばかりで、悟りをひらいたという実感もこれで救われるという実感も、全く得られませんでした。

このことにより園頭先生は、心の迷いは心そのものを浄化しない限り、きれいにならないものであり水やその他、形のあるものでいくら体を清めようと心は別であり、そのことで心まで清まるものではないということを知ります。心をきれいにするのに水による洗礼など必要ないのです。これまでこのようなことに疑問を持つ人がいなかったのか、不思議でなりませんでした。この体験から園頭先生が得たものは、物による形式的な儀式によって、人が救われるのではないということでした。

園頭先生は、そうした儀式にこだわらない、心で洗礼してくださる師はいないものかと求め始めるのでした。

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