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2月 20 2012

恩師への追悼

10:20 AM ブログ

平成十一年二月二十日、偉大な方が逝かれた。

その方は命を賭けて神理の道を進まれた。

自分以外の全ての人が神理を捨て他の道へ進もうとした時も、その方は神理を守りその道を進まれた。そして、神理を聞きたいという人が一人でもあれば、その方はどんな所へでも出向き神理を語った。どれほど疲れていようが、どれほど自分の体の調子を崩していようが、神理を聞きたいという人があるならば、どんな遠い道のりも一人いかれた。

そんな正しい道を一人進まれるその方に、多くの人が共鳴し弟子となられた。しかし、その弟子となられた人たちも、ある人は師の説く神理を十分理解することができず師に背いた。またある人は師からその地区の担当者を命ぜられると、とたんに増上慢になり自分の師より偉くなって師を裏切った。

師がどれほど分かりやすくその神理を説いても、師の神理を正しく理解する人は少なかった。

師は人の心が分かっていたため、間違った心で神理を聞いている多くの人たちの心を観て、どれほど切なく悲しい思いをされたことであろうか……。

しかし、師はそのような思いをされながらも、辛抱強く教え続け一人でも多くの人が神理を正しく理解され、幸せな生活をしていかれることを願った。

だが、多くの人が師の教えを理解することができず師のもとを去る。

師はそのような人たちの心を悲しまれた。そして、師の神理伝道の道は思うように拡がっていかなかった。師は知らず知らずのうちに焦り無理を続けていられた。

師は大変我慢強い方であった。自分の体がどんなに悪くても、周りに痛いとか疲れたとか弱音を吐く方ではなかった。そのため、師の体がそれほど悪くなっていると理解する人は少なかった。

ある時など、自分の体の調子がかなり悪いにもかかわらず、弟子の皆が楽しみにしているからと、弟子とともにインドに旅行され完全に体調を崩された。帰国された時は危篤の一歩手前という状態であったが、周りの弟子たちに心配かけたくない一心で、自分の家に帰るまでは普通に笑いながら歩いて帰ってこられ、周りに弟子たちがいなくなったその途端、足が一歩も動かなくなり即病院に直行されたこともあった。

体が衰弱し病院で点滴を受けているにもかかわらず、自分の講演があるからと医者や家族が止めるのも聞かず、それを振り切って弟子たちの待つ講演会場に行かれたこともあった。

そんなことが一度や二度あったということではない。何度もあったのである。

師はもう八十になろうかというご高齢であった。周りの弟子たちにそんな素振りを一切見せなかったが、そんな高齢の方がそれだけ無理を重ねていたのである。体を壊さないほうがどうかしている。

師の肉体は完全に限界をこえていた。師は自分の精神力だけで、神理伝道の使命感だけで、肉体を維持しているという状態であったのである。

そんな無理を続ける師についに肉体の限界が来た。もう精神力だけではどうにもならないほど、師の肉体は消耗しきっていたのである。

師の肉体の限界はいきなりやってきた。それは平成八年の三月、朝普通に起き一件電話をかけられた師は、まったくいつもと変わりがなかった。だが、その数十分後、奥さんが師を呼びに行かれた時、すでに師は倒れていられ、それから立ち上がられることはなかった。師の体はまったく自由がきかなくなり、寝たきりの状態になってしまわれたのである。

その後、師について勉強していた人たちは大分裂を起こす。師が倒れられると、それまで先生、先生と言っていた人たちが、自分勝手な考えで師であった人を批判した。神理伝道のため自分の肉体など二の次にして、全国を周っていた師の苦労など少しも理解していない人たちがである。

そのような人たちは現在教えてもらっている先生が、もし倒れられたとしても、きっと同じことを言い出すのではあるまいか。自分たちが師と比べ一体どれだけ命懸けで神理を伝道したというのであろう。少し常識を持っている人ならば、誰がそれだけ頑張られた師を批判することができるのか、そんな資格のある人など一人もいないのである。

師は寝たきりになられ話すことが不自由になられても、三年間頑張られた。

三年間も寝たきりで、周りにいろいろなことを言う人が集まれば、少しはその考えを変えられた時期もあったかもしれない。だが、だからといって、そのことをとやかく言えるだけの資格がある人がいるのであろうか。

ご高齢でもあり、こんな病気になれば、普通の人ならば顔や手などシワや染みだらけになるはずなのに、師は逝かれるまでシワや染みなど一つもできられなかった。寝たきりであるので体の節々が痛んでいて当然なのに、師は痛そうな顔も辛そうな素振りも見せられなかった。

そして、もう目を開けるのも手を上げられるのも辛いはずなのに、師は見舞い客があると必ず手を上げられ握手された。それがどれだけ自分自身にとって辛い行為であったことであろうか。だが、見舞い客にそんな素振りなどまったく見せられなかった。

普通であればそんな病気になれば、病状は悪化の一途を辿るはずなのに、師の病状は悪くなることはなかった。ただ肉体が徐々に弱っていった。若い人でも三年も寝たきりであれば肉体は衰える。

師は肉体が衰え、これ以上肉体にとどまれなくなった時、静かに逝かれた。

師は最後の最後まで弱音を吐くことなく、泰然自若として最期の時を迎え、静かに昇天されたのである。

師は最後まで立派であった。医者もその生命力、精神力には驚いていた。

師は寝たきりになられた三年間、最後の修行をされたのである。これだけ最後の最後まで立派であった方を、とやかくいう資格のある人はいない。

せめて最後に静かに逝かれた師に感謝と追悼の意を表すのは、人として当然のことではあるまいか。

平成十一年三月一日 鹿児島より帰って

少々長くなりましたが、私はこの追悼文を園頭先生の故郷である鹿児島より帰ってきた時に書きました。(この追悼文は拙著「宇宙即我 悟りへの道」の、おわりに、に書いてあります)

園頭先生が亡くなられた一週間後、私は一人、先生の生まれ故郷である鹿児島に行き、先生が小さな頃、歩かれたであろう場所を周りながら先生を偲びました。

この頃、私の周りの人たちは園頭先生の悪口ばかり言い、園頭先生の名前を出すことさえ、はばかられるような状況でした。(それで私は追悼文の中に園頭先生の名前を書かなかったのです)

しかし、いずれ園頭先生が、どれだけ偉大な方であったかということは分かることになります。(園頭先生のバカ弟子たちの愚かさもです)

今日はその園頭広周先生が、この世に出生され、また去られた日でもあります。

この二月二十日という日は、私にとって特別な日であり、また園頭先生が説かれた法を正しく伝えているのか、ということを改めて思う日でもあります。

少しでも師の思いを継ぐことができれば、私が思うのはそれのみです。

(先週は、いろいろ教えられ自分がこれから何をするかを知りました。しかし、やれるかどうかは分かりませんけど〔笑〕)

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