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5月 31 2021

中道と足るを知るということ

10:53 AM ブログ

1980年、四月号より抜粋

<正法によって「ふるい」にかける

民主主義、自由、平等という言葉が実際には内容のないなんら根拠のないものであったとしても、これらの言葉によって日本人がバラ色の夢を持ったのも事実であった。例えば、男女平等ということによって女性の地位が認められることになったのは女性には幸せであった。戦前は女性は準禁治産者として扱われていた。準禁治産者というのは、一人前の人格者として自分の言動に責任を持つことが出来ない者に準ずるということで、女性には選挙権はなく社会的な発言権は全然認められていなかった。終戦後生まれ女の人たちは、戦前の女性には選挙権はなかったのであるということは信じられないと思う人が多いのではなかろうか。封建的な男尊女卑の風があり、女性は男性の従属物みたいに扱われていた面もあった。夫の姦通は社会的に認められて罪にならなかったが、妻には姦通罪があった。これらが全部あやまりであるということで、女性にも男性と同じように人格、地位、発言権が認められたことは正しかった。しかし、それが行き過ぎて弊害が出てきている。特に女が女の役割と女らしさを捨てることが男女平等だと思う人が出てきたのは遺憾なことである。

家族制度そのものは世界に誇っていい制度であるが、戸主(こしゅ)である男子の横暴、無理解によって家族間の対話もなく、女子や子供たちの発言は認められず不幸であるというようなことがあった。そのような家族制度の苦しみに悩んでいた人たちにとっては戦後は幸せであった。戦後、家庭の中で女性と子供たちの人権、発言権が認められたことはよかったが、これもまた行き過ぎて今度は逆に、夫が弱くなってしまった。そのために非行少年やノイローゼが増加しているのであるといって最近は「亭主よ強くなれ」「父親よ戦前のように強くなれ」という意見が出てきている。

教師が自由、平等ということで「先生も生徒も平等である」といったことは逆に教師に暴行する生徒の増加となって教師自身が困っている。

戦前は、お上(かみ)即ち政府や官公庁は、住民の意見は無視して公共事業を強行したが、戦後は民主主義ということで一人でも反対者があるとなかなか公共事業は推進出来ない。その上、多額の補償金を要求してごね得の風が生じ、年々公共事業はむつかしいという状態が出てきて困っている。

ごねてもらわなければ損だという風潮はストにも現れて、毎年のことながら国民大衆の利益をまったく無視した交通ストが年中行事のように行われている。

地域社会においては、社会秩序を乱すような利己主義者がいても、プライバシーの尊重、人格尊重ということで取り締まるわけにもいかないということになってしまった。例えば、学校の近くにラブホテル、連れ込み宿の建設が計画され、父兄が教育上よろしくないと反対運動をしても、人が営業をしようとする権利を認めないわけにはいかないということで知事は許可する。こういうことはなんとかしなければならないとは誰もが思っていても、さてどうするかということになるとなにも具体策はない。結局はその人の良心に待つしかないということになる。その人がやめるといわない限り父兄や子供たちはその被害をもろに受けることになる。

戦前は雇用主のいいなりに低賃金で働いて貧しかった人たちが、戦後、労働権、団結権を主張して自由に発言出来るようになったことはよいことであった。しかし、それが行き過ぎて「昔軍隊、今総評」といわれるようになり、組織労働者が全国的なストを年中行事のようにやって国民に損害をかけるようになった。

中でも戦前は先生として尊敬されていた人たちが、自ら先生という聖なる立場を放棄して一介の労働者となり、父兄の反対を無視し、生徒を人質にしてストをやるという日教組のあり方はあまりにひどい。この日教組の問題は早く修正しないといけない。

偏狭な国粋主義者たちは、日本精神を外国人に植え付け、天皇陛下を仰がせることが八紘一宇であり世界統一への道であると考えてきた。日本内地でも「非国民」といわれることは致命傷で、少しでも意見をいって「非国民」といわれると村八分にあって生活が出来なかった。占領政策によってそのような強制がなくなり解放されたことはよかったが、今度は逆に国はどうなってもかまわないという人たちが出てきた。

極端と極端は正法ではない。戦前の右寄りの極端を修正し、戦後の唯物論的な左寄りの極端は修正しなければならない。なにによって修正するか、それは正法による中道の道しかない。右か左かという二者択一理論は間違いである。

戦後の日本人は、○×式解答にならされてしまって、出されてある答えの中からどれか一つを選ぼうとして、それ以外の答えを考えようとしない傾向がある。国を愛するか、愛しないかのどちらかという問題の出し方も間違っていれば、その二つの答えの中からどれか一つを選ぼうとするのも間違いである。戦前の愛国心は、日本の国を愛するということが日本は神国ですばらしいが外国は神国でないから日本より劣っているという外国蔑視の愛国心であった。

正法による愛国心は、日本の国を愛することが同時に世界の国々をも愛するということになる愛国心である。日本人を愛すると同じように外国の人々をも愛する道である。すべての人を物も、すべて愛によって包摂(ほうせつ)してすべてを愛していく道、それが正法による中道の道である。

だから正法が家庭で生かされる時、家族全体が明るく調和してくるし、正法が官公庁で生かされるならば国民や住民の税金の上にあぐらをかいて、奉仕を怠って自分の懐だけを肥やすという悪徳官公吏は一人もいなくなるし、労働組合の集団的利己主義によって国民全体に迷惑をかけるストもなくなる。

それにもまして、正法は唯物論と進化論という虚構の理論によって精神的に呪縛されて、間違った思想の奴隷になっている人たちを、精神的に解放して真の人間性に目覚めさせることが出来るし、宗教的には、間違った教義の奴隷になっている各宗教団体の信者たちの心を解放させることが出来る。

アメリカ占領政策が進めた唯物論、共産主義を基盤とした自由は、結局は唯物論、共産主義の呪縛に陥ってどこにも自由はない。

資本主義は、共産主義に対置して人間を金の奴隷とする思想であるから、資本主義の下においても完全な自由はない。資本主義も共産主義もどちらも唯物論であって虚構である。日本人は明治以来、資本主義か共産主義かという二者択一の中で思想的に翻弄(ほんろう)されてきた。なんのことはない、一つのお椀の中で白い石と赤い石が、あっちにいったりこっちにいったりしてきただけにすぎないのである。我々の世界は一つのお椀の中だけではない、宇宙は無限の広さを持っているのである。椀の外に出て、唯物論による資本主義か共産主義かという二者択一の考え方を捨てて、人間の原点に立った新しい経済政策を立てなければいけない。あえて名づけるならば「正法奉仕経済主義」である。

経済は肉体を維持し、霊の向上を図るための文化文明を維持すれば足りるのであるから、世界各国は資源を有無相通じ、人的資源の交流と物的資源の流通を調和させれば足りるのである>(多少、分かりやすく書き直した部分あり)

以上、正法誌より抜粋しました。

園頭先生は大正生まれの方であり、大東亜戦争前後の、戦前、戦中、戦後を(昭和の時代までですが)よくご存知の方でありました。

その園頭先生から見た戦前と戦後の違いを、そうして、では正しいものとは何であるのかということが分かる部分を正法誌より抜粋しておきました。

いま現在は戦後といわれた昭和の時代より、さらに偏った人が(悪魔の左翼主義に洗脳された人が)増えてきて、もっと危ない時代になっています。(なんせ世界を滅ぼすLGBT法案など通そうとしているのですから)

そういう時代にあって、では、正しい基準とは何かと、何を基準にすれば正しく生きられるのかとそれを思い書いた次第です。

このような混迷の時代に正しく生きるには、この正法神理を基準とするしかないということをよく知ってください。

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